「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

余談 その10 面白いAmazonレビューがありました。

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。) 


*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

 (前のページに戻る)


 amazon面白いレビューがありました。アマゾンで「最も参考になったカスタマーレビュー」、ドリーさんの「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」です。なんと、19,237人もの人が参考になった。としています。まずは、以下のレビューをご覧ください。

 

アマゾン レビュー欄を読む。 

 

 このレビューは、長年村上春樹に浴びせ続けられている極めてオーソドックスな批判(罵倒?)です。オーソドックス過ぎてもはや「テンプレ」ですが、面白いと言ったのは、なぜ、このような「テンプレ」な批判が今これだけ支持を集めるのか?ということです。

 

 かつては村上春樹の作品は新作を出すたびに、ボロクソに批評家等に批判され、けなされて続けてきました。しかも、なんつーか批判というよりは、感情的な罵倒みたいのが多いんですね。その批判(罵倒)はたいてい読者にまで及んで「こんなの読んでいる奴はバカだ」みたいな話にまでなる。そんなに嫌なら読まなきゃいいのに、まあ彼らも商売だから嫌なものも読まなきゃいけんのか、大変だなあ、という感じでした。あとは、1つのファッションでもあったのですね。「村上春樹をけなす俺、カッコいい(文学的に高尚だ)」みたいな。

 

 しかし、ある時期から主要メディアからはこうした批判は下火になってきます。それは、村上春樹が海外で評価され、海外の文学賞を受賞しはじめた頃からです。日本人は海外の評価とか賞とかに弱いですからね。下手に批判(罵倒)すると、「海外で高く評価されているのを批判するなんて、批判しているお前の方が作品を理解できていないアホだ」と言われかねない。このため、実名を出すような評論家からはあからさまな批判のボルテージは下がり、やたら難しい概念で評価するとか、批判するにしてもなんか奥歯に物が挟まったような、はっきりしないようなものが増えました。

 

しかし、こうした批評は一部(大部分?)の読者の納得を得られません。だって、たいていの人には村上春樹の作品はつまらないからです。なんか評判になっているらしいから買っちまったが、読んで後悔している、読んだ時間と金返せと思っている人もいる(多い?)。レビューというものは「あー、自分もそう思っていたんだ」と共感を得るためのものでもあります。主要メディアから、あからさまに村上春樹はつまらんと言う批評が少なくなった今、そうした読者の納得と共感を得られるレビューはネットにあります。それこそがドリーさんのアマゾンレビューです。

 

以下、個別にみていきます。まとめるとこんな感じですか(いいかげんすぎ?)。

1.「村上春樹の小説は『妄想』である。」

2.「村上春樹の登場人物、ウザい。特にアカ。」

3.「主人公は『ぼっち』だ。『ぼっち』のくせに、彼女がいるとは生意気だ!」

4.「主人公、モテないだろ?」

 

1.「村上春樹の小説は『妄想』である。」

 いや、小説なんだから妄想なの当たり前だろ、ドキュメンタリーじゃないんだから、といったことではなくて、こう批判する人は、要は「リアリティがない」と言いたいのだと思います。まあ、そのとおりかと思います。あまり村上春樹作品に「リアリティ」を求めても無駄かな、「リアリティ」を求めるなら他の作家の作品を読んだ方がいいのではないかな、と思いますね。

ただ、村上春樹の小説は「妄想」なのですが、これはやむにやまれる事情があります。多くの村上春樹作品のテーマは「死者との邂逅」です。「死者」とはリアルには邂逅できませんから、そこは「妄想」の力に頼るしかないのです。だから「妄想」は村上春樹作品にとって重要な要素なんですね。

 

2.「村上春樹の登場人物、ウザい。特にアカ。」

 村上春樹の登場人物は、ともかくウザいです。現実世界にこんな芝居がかった言い回しや、気の利いた(?)警句を日常的に口にする人間はいません。

 ただ、欧米(特にアメリカ)の小説ってたいていこんな感じです。登場人物が不自然なほど芝居がかった言動をしたり、警句めいた言葉を吐いたりする。現実世界の欧米の人がそんな言動をしているとは思えません(私の数少ない海外の友人はそうではありません)ので、欧米の読者は、小説の中の登場人物はそういうもんだと思って、小説内のお約束として読んでいるのではないかと思います。村上春樹の作品は、アメリカ文学の影響を大きく受けていることが昔から指摘されていますし、海外の読者も増えているので、ここ最近の作品は更に海外の読者を意識した書き方をしているのかなと思います。

 

 特にウザいのはアカですが、この小説内ではアカは「道化」のキャラクターを割り振られているので、もちろんわざとウザく書いているのです。ただでさえウザい村上春樹の登場人物を、作者が意識的にウザく書けば、ウザさ百倍でしょう。

 

3.「主人公は『ぼっち』だ。『ぼっち』のくせに、彼女がいるとは生意気だ!」

 村上春樹の主人公は「ぼっち」です。「ぼっち」という言葉が生まれる前から「世間」や「空気」から孤立した、孤独な主人公を書くのが村上春樹でした。村上春樹作品を「引きこもり系」と評したのは斎藤環氏でしたっけ。ただ、主人公が孤独だという設定の話をすると長くなるので別のエントリーで書くとして、「『ぼっち』のくせに、彼女がいるとは生意気だ!」の方を見ていきましょう。

 これは村上春樹的「ご都合主義」です。村上春樹の主人公は「ラノベ」や「ラブコメ」の主人公だと思えばいいでしょう(「ラノベ」「ラブコメ」は少年向けですので、セックスまで持ち込めませんが、村上春樹は「大人向け」なのです)。まあ、女の子が主人公に近づいてくるのは、本当はそれなりに色々理由がある(小説によって違う)のですが。

 平坂読僕は友達が少ない」(メディアファクトリー)という「ラノベ」があります。(実は読んだことないです。ただ、amazonとか見ると典型的かなと思ったので紹介します。)主人公はタイトルどおり友達が少ない(とういか、いない?)です。しかし、なぜか知りませんが、わらわらと可愛い女の子達が近づいてきてハーレム状態になります。そして、これを読んだ読者が「そんなん、『友達が少ない』と違うわ!」「そんなんだったら友達少なくて構わんわ!」とツッコミを入れる作品だと思われます(え、違う?wikiを見ると確かにそんな単純な話でもないかもしれませんが)。村上春樹の主人公もそんな感じです(え、全然違う?)。

 

 ちなみに、村上春樹が「ラノベっぽい」という批評を最近よく聞きます。書いている人達もわかってて書いているのだと思いますが、村上春樹が「ラノベっぽい」のではなくて、「ラノベ」の作者が村上春樹の影響を受けているのです。もっとも現在のラノベ作者は、村上春樹から影響を直接受けた人よりも、村上春樹のフォロワーから影響を受けた人の方が多いと思われますので、自分が村上春樹のフォロワーのフォロワーだという意識はない人が多いかと思われますが。

 

4.「主人公、モテないだろ?」

 主人公(多崎つくる)モテなさそうですね(まあ、イケメン設定ですので初対面ではいいのかもしれませんが)。特に最初の恵比寿のバーでの沙羅との会話は、「なんじゃらほい」て感じです。(ちなみに「○○のことはよく知らない」というのは、R・チャンドラー「長いお別れ(ロング・グッドバイ)」(早川書房)のフィリップ・マーロウのパロディだと思われます。そういえば、村上春樹も翻訳していますね。「そんな古い小説のパロディなんて分かるか!」というツッコミはもっともですし、現実世界にフィリップ・マーロウの真似をする人がいたら、その人は100%モテません。

 しかし、「主人公、モテないだろ?」はこの小説では、実は大きな意味があります。沙羅は目的があって多崎つくるに近づいているのですから、多崎つくるがモテようがモテなかろうが目的を果たすまでは多崎つくるから離れません。ということで、「主人公、モテないだろ?」は「沙羅は、多崎つくるに目的があって近づいたのであって、決してつくるがモテ男だったからではない!」という伏線になっている訳です。ドリーさん鋭いツッコミです(「ドリーさんにアドヴァンテージ!」)。

 えーと、上記は冗談で書いているわけではありません。次回のエントリーでは詳細について検討します。

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)  

余談 その9 沙羅の「2人の友達」とは誰?

 

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。) 

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

(前のページに戻る)

 

 先日、下記エントリーのコメント欄で、沙羅の「2人の友達」とは誰かについてのご意見がありました。

21.沙羅は何者?、22.沙羅と一緒に歩いていた男性は誰?及びコメント欄

(ただし、上記のエントリーを初めてご覧になられる方は、わかりにくいかと思われますので、できれば15.シロを殺した犯人は誰か?あたりから順番にご覧いただけると嬉しいです。)

 それで、沙羅の「2人の友達」が誰か、私なりに推論を考えてみました。以下に述べます。

 

1.沙羅の「2人の友達」の条件

 小説の描写から、沙羅の「2人の友達」は以下の条件が当てはまる人かと思われます。 

① 友達は「女性」である(この話は、もともと女の子同士でしか話せないことはあるから、クロはシロの事情をもっと詳しく知っている筈という話から始まった話です)。

     友達は多分「同じ高校で同じ時期に学んだ仲間」である(つくるのグループと対比して沙羅は話しています)。

     高校時代からの友達である。

     2人とも結婚していて、子供もいる。

     それほどしょっちゅうは会えない。

以上の条件から考えて3つの説が考えられます。

第1の説は、「この小説には『2人の友達』は登場しない」です。

この説の根拠は、上記5つの条件が全て当てはまる人がこの小説には登場しないからです(「色が薄くなっていく彼女」は親友にはとても見えませんので除外です)。

 しかし、これでは面白くないので、第2の説「この小説には『2人の友達』は2人とも登場する」について検討してみましょう。この説の根拠は、「作者がわざわざ書いているんだから、何か意味があるのだろう」です。

①~⑤の条件を厳密に考えなければ(特に②はあまり関係ないと考えれば)、条件に最も当てはまるのは、まずクロです。②を除き全て条件に当てはまります。もう1人ですが、消去法で考えるとオルガしかいないのですね。コメント欄で「たく」さんの挙げた「青山で沙羅と一緒にいた男性」はおそらく違うかと思います。①の「女性」である、というのは絶対条件かと思いますし、③の「高校時代からの友達」にも当てはまらないかなと思われます。

オルガ説ですが、補強する証拠としては、「私にも一人、高校時代からの友達がいます。今でもよく会って話します」という意味深なことをオルガは言っています。また「(彼女とは)しばらく会っていませんが」と言っているので⑤の条件にも当てはまります。④については何も描写がないので不明です。

しかし、彼女の年齢は「たぶん二十代後半」となっているので、見かけの年齢が合っていれば②でないことはもちろん、③「高校時代からの友達」というのもかなり微妙です。彼女の見かけは二十代後半だが、実は三十代後半で、高校時代日本(名古屋)に住んでいて沙羅と友達でないと、③の条件は当てはまらないのですね。

ということで、オルガが「2人の友達」の1人であるかは、ちょっと微妙だと思います。

  このため第3の説、「この小説には『2人の友達』のうち1人は登場する(これはクロを指す)が、もう1人は登場しない」なのかな、と思います。なんか、すっきりしませんが。

 

2.沙羅とクロ(黒埜恵理)の仲は?

 しかし、上記第1から第3の説のどれであっても、沙羅とクロ(黒埜恵理)が現在も親密な仲であることは小説の描写から明らかです。以下確認してみましょう。

 

① もともとクロとシロの姉である沙羅は、シロの秘密を共有する親密な仲です。(もちろん、「沙羅=シロの姉」仮説が正しければの話ですが)

② 沙羅がグループのメンバーの連絡先を調べたときにそれほど簡単ではなかったと書かれているにも関わらず、わずか5日で(おそらく公表されていない)クロのフィンランドの自宅の住所及び電話番号を入手しています(アオやアカの連絡先がおそらく公開されているオフィスの住所であることに注意)。初めから沙羅はクロの住所と電話番号を知っていたとしか思えません。

③ アオとアカとの巡礼が終わった後、会った事も無いはずなのに、クロならば事情を知っている気がするなど、確信ありげに沙羅はつくるに話しています。クロが事情を知っていることを沙羅は初めから知っていたのです。

④ クロは多崎つくると再会したときに非常にびっくりしています。しかし、なぜか夫のエドヴァルトは見知らぬ日本人が突然訪ねて来たにも関わらず、全然驚きもせず、まるで訪問を予期していたかのように、落ち着いて対応しています。これは、沙羅が事前にエドヴァルトに以下のような連絡をしたからだと思われます。(クロの親友である沙羅は、もちろん夫のエドヴァルトとも知り合いです。)

「多崎つくるという日本人が、近々エリを訪ねて来ると思うが、彼は高校時代のエリの親友なので歓迎してやってほしい。ただ、彼はエリにはサプライズで会って驚かしたいらしいので、彼女にはこの件は知らせないでくれると嬉しい。もちろん、この連絡もエリには知らせないように。」彼はこの依頼を承知しました。

⑤ クロは、多崎つくるの職業を「しばらく前に風の便りに聞いたよ。」と言っています。誰に聞いたのでしょう?アオ?アカ?彼らがわざわざ、つくるが現在何の職業に就いているかを調べるとは思えません。彼らがつくると再会したときも、彼の職業を初めて知ったような感じでした。では、クロは誰から聞いたのでしょうか?もちろん、沙羅から聞いたのです。(つくるの巡礼の後にアオかアカがクロに知らせた可能性もありますが、アオかアカに聞いたのならそのように話すだけで、風の便りなどと曖昧な言葉で濁したりしないでしょう。)

⑥ クロは、1度も会ったことのないはずの沙羅のことを随分推します。初読のとき、クロの沙羅推しに随分違和感がありました。親友であれば、彼女のことを推すのも不思議ではありません。

 

3.クロはどこまで真相を知っているのか? 

 クロが、沙羅と現在も親密であるという仮説が正しいとすると、「では、クロ(エリ)はどこまで真相を知っているのか」という話になります。

 まず、クロは沙羅の正体がシロの姉であることは当然知っています。彼女が、多崎つくると再会して彼と付き合っていることも知っています。しかし、これは沙羅から知らされたことです。クロは沙羅から以下のように知らされているのだと思います。

 「先日、偶然に多崎つくると再会した(これは、もちろん沙羅の嘘です。再会は彼女が伝手を使って仕掛けたことです)。そして、色々あって彼と付き合うことになった。しかし、彼は自分がシロの姉だということに気が付いていない。彼がびっくりするといけないので、しばらく秘密にしようと思う。折を見て彼には打ち明けるつもりだ。」

 彼女がしばらく秘密にすると言っている以上、クロから沙羅の正体をつくるに暴露する訳にはいきません。

 しかし、彼女がつくるに秘密にしていることは、これだけだと思います。事件の真相はおそらく彼女は知らないです。

 

 彼女が真相を知らないであろう根拠は以下のとおりです。

1に、彼女がつくると再会したときの衝撃を受けた態度は、演技とはとても思えません。彼女はまさか多崎つくるが訪問してくるとは思わず本当に驚いたのでした。つまり、沙羅の「巡礼計画」はクロには知らされていないのです。

ただ、実際には沙羅はクロを驚かせないために、本当は多崎つくるの訪問自体は事前にクロに知らせたかったのだと思います。だから、沙羅はつくるに、事前に何のアポイントもなく本当にフィンランドへ行くのか聞いています。ところが、つくるのアホがサプライズでクロを訪問したいとどうしても言い張ります。事前にクロに知らせるとクロの態度が不自然(少しも驚かず、つくるの来訪を予期していたかのような態度)になってしまい、つくるが、この巡礼が沙羅によって仕組まれたものだと気が付いてしまう可能性があるため、沙羅はクロに知らせず、夫のエドヴァルトにのみ知らせたのです。

いずれにしても、沙羅の「巡礼計画」にはクロは関わっていません。

第2に余談 その6 この小説の構造は?①~3つの関門の第3の関門でも書きましたが、彼女のキャラクターは、「真相など知りたくない、(多義的な解釈へ)逃げたい」というキャラクターです。これが、彼女が「最後の誘惑(多義的な解釈)への罠」となる流れになります。もちろん、彼女の心の中の描写までは書かれていないので分かりませんが、彼女が「真相を知りつつ、それを隠す」キャラクターだと感じさせる描写は1つもありませんので、沙羅がシロの姉である事実を知っていることを除き、彼女が知っていることは小説内で語られたことが全てであるかと思われます。

 

(平成26年5月2日追記)

 沙羅は「さよならカローラ、こんにちはレクサス」、クロは「さようなら小説、こんにちは陶芸」と似たようなフレーズを使って話しています。友達同士でよく使っているフレーズなのでしょう。この描写も沙羅とクロが友達であることを裏付けていますね。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)  

余談 その8 この小説の構造は?③~多義的な解釈と一義的な解釈

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。) 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。(村上春樹ノルウェイの森」への言及があります。)

(前のページに戻る) 

 村上春樹の小説においては、一部を除き「ファンタジー的な展開」と「メタファーの多用」が目立ちます。こうした手法をとることにより、物語に対して読者が自由に多義的に解釈できるようにしているのです。

 なぜ、彼がこのような手法を多用するかというと、これは「ノルウェイの森」に出てくるキズキと直子の死が深く影響していると思われます。直接出てこなくても村上春樹の作品には、キズキや直子を思わせるキャラクターが何度も出てきます。特に前期「村上春樹作品」は、キズキまたは直子の死が重い問題として作品に色濃く反映しています。

 なぜ、キズキと直子は自殺したのか?この理由について、作者は明確に述べていません。答えらしいものが小説でも書かれることもありますが、明確に断定的には述べられていません。これは、はぐらかしているのではなく、作者本人にも明確には分からないからだと思われます。明確な言葉で断定してしまうと、どうも違うような感じがするものなのです。もともと死の理由が一義的にこれだと断定できるものではなく、多義的なものだと思われるからです。

このように、必ずしも一義的に物事を語れない事というものはあります。このため作者は、これまで物語の意味や理由を一義的に断定することを避け、メタファーやファンタジーを多用して多義的に解釈できるような手法を多く使ってきました。

 しかし、今回の小説は「殺人事件」です。「殺人事件」に多義的な解釈はありえないのです。どこかに現実の犯人が一義的にいるはずなのです。ここで多義的な解釈を持ち出すのは、犯人、「根源的な悪」を見過ごし、逃してしまうことになります。

 5月6日の講演(http://sonhakuhu23.hatenablog.com/entry/2013/05/09/073531参照)で村上春樹氏は、この小説を「文学的な後退」とみなされるかもしれないが「新しい試み」だとしました。これまで村上春樹はメタファーやファンタジーを多用して多義的に解釈できるような手法が評価されており、これが村上春樹の魅力であると思っている読者も多いでしょう。今回の小説で一義的な解釈しか許されない「推理小説」の手法を使うことに対して、従来の村上春樹の魅力を損なう「文学的な後退」であるとみなす読者や評論家もいるかもしれません。しかし、村上春樹はそのように評価されるリスクを負って「新しい試み」に挑戦したのだと思われます。

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)  

余談 その7 この小説の構造は?②~緑川の話、灰田、「オカルト」の扉

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。) 

(前のページに戻る)

*激しくネタバレしています。ご注意願います。(本文内に京極夏彦鉄鼠の檻」の引用があります。あらすじの紹介ではなく、用語の解説としての引用です。)

(このエントリーは、あくまで「推理小説的な解釈」をしています。「そんなふざけた解釈するな!」と言わずにまあ、聞いてください。)

 

 灰田及び緑川の話は一体何だったのか?これは、作者がこの小説の中に「オカルト」色を出して読者を惑わすための仕掛けです。

 推理小説ではよくある仕掛けですね。周りの人たちが、いわゆる「○○の呪い」だ、「□□の祟り」だ、といって事件をオカルト的な超常現象のせいにしてしまい、人間の犯人は存在しないかのように思い込んでしまう仕掛けです。大体の場合は名探偵が登場して、「『○○の呪い』なんてない!犯人は実在する!」と言って真犯人を当ててしまうわけですが。

 

 ただ、この小説ではそもそも「これは一体、どういったオカルトなのか。」ということがわかりにくいです。それは、作者が読者自身に「オカルト」的な推理(これはミスリードなわけですが)をさせるためです。あまりにもあからさまなオカルト話だと荒唐無稽だとして誰も信じないか、あるいは、「この小説は、そういうオカルト話なのだ」と信じ込んでしまって、誰も推理自体をしようとしなくなります。この小説は名探偵が出てこないので、誰も種明かしをしてくれないのです。

 

このため、まず、以下に緑川の話と灰田の「オカルト的解釈」を説明します。「オカルトの世界」とは、悪魔や魔法が存在する世界です。

 

1.緑川の話と灰田の「オカルト的解釈」

 

 第1に緑川の話は、普通に考えれば、自分の魂やら寿命と引き換えに、特殊な力を得、魂(寿命)の回収を避けるには、代わりの生贄を捧げなくてはいけないという話です。これは、典型的な「悪魔との契約」です。緑川は、「悪魔と契約した男」です。そもそも緑川の話は、「悪魔というものを信じるか?」という話から、核心的な話がはじまっています。

 

 第2に小説内で駅員に「フィクション上の人物では「羊たちの沈黙」の『レクター博士』」「中世のヨーロッパでは六本の指を持つ人間は魔術師や魔女として焼かれた」などと語らせているように、この小説では多指症は、「魔術師」あるいは「悪魔的な人物」のメタファーとして扱われています。多指症である緑川は、悪魔と契約した「魔術師」であることを暗示しています。

 

第3に「知覚の扉」とは何か?ということです。私は前に「悟りの境地」に近い話なのではないかと書きましたが、これは、実は「悟りの境地」と似て非なる「魔境」なのかもしれません。

仏道修行(ここでは座禅)を続けていると、感覚が研ぎ澄まされ、「『普段見えぬものが見えて来る。聞こえる筈のない音-例えば禅堂の外の枯葉が一枚枝から外れている時の音-が聞こえたりする』」「『それにそう云うことが続くと、例えば普段見ている景色が矢鱈に新鮮に見えて来たりする。世界が新しくなったような、清浄な気持ちになれる。それこそ仏境界かと云う気に』」なります。しかし、これは「悟りの境地」などではなく、「『それこそが魔境なのです』」「『悟ったような気分にさせるただの魔境』」です。(「太字部分」京極夏彦鉄鼠の檻」(講談社)からの引用です。)

修行者は上記の感覚を「悟りの境地」と誤解してしまう場合もありますが、禅宗では、これを「魔境」といって「悟りの境地」ではなく、むしろ「悟り」への修行を妨げるものだとしています。

ところが、この「魔境」を悪用して、「仏道修行をすると超能力が身につく!」と言って信者を勧誘した新興宗教があります。「オウム真理教」です。修行をして「魔境」を体験した信者たちは、「修行したら、本当に超能力が身についた!」と思い込み、ますます教祖への信仰を厚くすることになります。

 

ということで、緑川の話は、(自らがセールストークと言っているとおり)、邪悪な宗教的なものへの勧誘を意味しています。

「跳躍」という言葉もうさんくささ倍増です。「跳躍」といえば、あのオウム真理教の「跳躍」写真を想起させます。

 

第4に、なぜ、灰田はこの話をつくるにしたのでしょうか?この話をするときはいつの時でしょうか?もちろん、緑川の言うところの「セールストーク」の時です。つまり、灰田は多崎つくるに「セールストーク」をしていたのです。

ということは、灰田が話をした内容には嘘が混じっていて、緑川から灰田へ「トークン」は受け継がれていたのです。受け継いだのは今でも生きている灰田父ではありません。灰田は自分自身の話を、父親の話として話したのです。

 

第5に、灰田とは、何か。ということですが、多崎つくるが会った灰田は人間ではありません。「悪魔的な存在」です。15年後(現在)、多崎つくるは灰田と会っています。しかし、灰田は灰田の外見ではなく、全く別人になり変わっています。ただ、水泳の動きで多崎つくるは、その人が灰田であることを認識したのでした(現実的なつくる君は、結局人違いだと片付けてしまいますが)。

 

つまり、「悪魔的な存在」は魔術師の資格のある多指症の人間に近づき(当然、「悪魔的な存在」は多指症の人間を見分けることができます)「魔境」を体験させることを条件にその人の存在そのものを要求します。契約が成立して約束の期限になると、「悪魔的存在」は彼の身体を乗っ取ります。

 

これは、言うまでもなく邪悪な新興宗教(オウム真理教)のメタファーです。邪悪な新興宗教の「セールストーク」を受けて、「超能力」に興味を持ち入信した者は、「魔境」を体験して「超能力」を得たと感じたことにより教祖への帰依を深めることになるのですが、それと引き換えに信者は教祖によってマインドコントロールされ自分という存在を失い、教祖の人格に同化するのです。

 

そして、小説世界では乗っ取られた人間は死に、「悪魔的な存在」は、乗っ取った人間の外見を得ることになります。灰田にセールストークをした緑川については、既に死んでいて緑川の外見の「悪魔的存在」だったのか、それともまだ生きていて、灰田を悪魔に生贄に捧げて、自分は生き延びるためにセールストークをしていたのかは分かりません。

灰田は、実際には緑川のセールストークを受けて興味を抱き「悪魔的存在」と契約したのです。「魔境」を体験した後、「悪魔的存在」に身体を乗っ取られた灰田は死にます。そして、灰田の外見をまとった「悪魔的存在」は、多崎つくるに近づくのです(おそらく、多崎つくるも多指症だったのですが、自分では手術を受けたことを覚えていないのでしょう)。しかし、多崎つくるは持ち前の鈍感さを発揮し、また現実的な性格だったため(父親の「作」の命名が効きました)、セールトークは効を奏しませんでした(あるいは、小説内では途中まで「人間」としての灰田は生きていて、おそらくつくると会わなかった10日の間に死んで「悪魔的存在」の灰田になり変わったのかもしれません。これは、どちらか分かりませんね)。

 

第6に緑川の話をした後の夜の出来事は何か?ということです。まず灰田は、その悪魔的な力を行使して、多崎つくるを金縛りにします。そして、夢の中で多崎つくるはシロを犯します。それは灰田という(悪魔的存在の)媒体を通じ、時空を歪めされた夢の回路を通って、過去の現実のシロを犯したのです。そして彼女は妊娠します。

 

第7にシロを殺したのは、誰か?これは、「灰田であった『悪魔的な存在』」です(以下、単に「灰田」としているのは、「灰田であった『悪魔的な存在』」という意味です)。多指症の話は、6番目の人間が犯人であることを指し示しています。5人のメンバーの後に出てきた6番目の男、灰田が犯人です。鍵はどうしたって?「悪魔的存在」の前には鍵など無効です。

 なぜ、「悪魔的存在」は、多崎つくるにシロを犯させ、シロを殺したのか?それは、トートロジーですが「悪魔的存在」だからです。悪魔は、人に悪霊としてとりつき、また人を殺すのです。

 また、灰田は「ル・マル・デユ・ペイ」を通じて、(多崎つくるを介して)シロ(白根柚木)とつながっています。灰田が「巡礼の年」のLPを多崎つくるのマンションに残したのはわざとです。彼は「巡礼の年」を媒介にしたのです。

 ((平成25年5月19日追記)wikiによると、フランツ・リストは「その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には『指が6本あるのではないか』という噂がまともに信じられていた。」そうです。もちろん、「噂」であって「事実」ではありませんが。また、リストは「ピアノの魔術師」とも呼ばれています。)

 

第8に、灰田の首に傷があるのは、彼が「頭を失った」ことを暗示しています。彼が悪魔的存在に身体を乗っ取られ、自ら思考する頭も奪われたことの比喩として首の傷はあります。

 

 2.「オカルト的解釈」か、「リアリズム的解釈」か

 

言うまでもないことですが、上に書いたことは全部でたらめです。現実では起こりえないことをいくら解釈しても現実には起こらないのです。しかし、村上春樹は灰田に関しては「オカルト」的なジャンクを小説のあちこちにばらまいて、読者が「オカルト的解釈」もあるのかもしれないと誤った方向へ進むよう、罠を張っているのです。「オカルト的解釈」の恐ろしいところは「一見もっともらしいが、実際には何でもありだ」ということです。何でもありなので、いくらでも都合よく解釈が可能なのです。しかし、オカルト的解釈に引き寄せられれば引き寄せされる程、真実からは遠ざかり犯人は捕まらず、犯人の勝利になります。

ここまで読んで「いや、でも村上春樹のことだからやっぱり『オカルト的解釈』も有り得るんじゃね?」と思われた方のために以下補足します。

 

第1に、ここまで本編をお読みになられた方は分かると思いますが、この小説の「リアリズム的解釈」の枝は、構築がしっかりしています。この小説の謎や手がかりは巧妙に仕掛けられ、隠されていますが、その構築に沿って推理しようと思えば、整然と論理的に謎は解け、真相は明らかになります。

これに対して「オカルト的解釈」の枝は、ジャンクです。構築がはっきりしておらず、犯人を推理するにはご都合的な解釈や、強引な無理やり解釈が必要です。上記の「オカルト的解釈」でもかなり強引な解釈をしています。これは、もともと誤った枝なのだから当たり前です。

 

第2に、緑川の話自体が、この小説の比喩になっているのです。仏教の修行で、「魔境」の体験を「悟りの境地」と勘違いしてしまうと、むしろ「悟りに至る道」への妨げになります。これと同じように、「緑川の話」から始まるオカルト的な展開を「これが真実への道だ!」と誤解して「オカルト的解釈」をしてしまうと、誤った犯人を推理してしまい、事件の真相へたどりつけなくなるのです。

 

第3に、灰田について邪悪な描写はありません。灰田の正体が「悪魔的な存在」であるならば、どこかに邪悪な影の描写が無くてはいけませんが、灰田はあくまでクリーンな存在として描写されています。多崎つくるも「しかしつくるはそれを不穏なもの、邪なものとしては感じなかった。何があるにせよ、灰田が自分に対して良からざることをするはずがない-そういう確信に近いものがつくるにはあった。それは初めて彼に出会ったときから一貫して感じていたことだった。いわば本能的に。」と感じています。

灰田は邪悪な存在ではありません。

 

 第4に、村上春樹の過去の「ファンタジー小説」(ここでいう「ファンタジー小説」とは、ハリー・ポッターのようなファンタジー小説の意味ではなく、「現実には起こりえないことが小説内では発生する小説」程度の意味です)では「夢の回路」が重要な役割をすることがあります。このため、「オカルト的解釈」の第6のように、村上春樹の小説世界では「夢の回路」を通じて多崎つくるが過去のシロを犯すこともあり得るのではないか、という意見もあるかもしれません。

 しかし、過去の作品の「夢の回路」は「同時性」が重視されています。時間を遡って過去の世界に干渉することは有り得ません。

 また、多崎つくるの精液は灰田の口に受け止められ、その後洗面所で口をゆすいでいる描写があります。精液は時空を飛び越えてどこかへは行ってはいません。この小説の中では「夢の回路」は存在しないのです。

 

(緑川の話と灰田の「リアリズム的解釈」については(灰田①・・・緑川の話は?)を参照願います。)

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その6 この小説の構造は?①~3つの関門

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。) 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 (前のページに戻る)

 さて、このBlogでは、この小説は「推理小説」であると繰り返し述べているところですが、もちろんこの小説は普通の「推理小説」とは違います。具体的に犯人の推理に入る前に読者は3つの関門を突破しないといけません。例えて言うなら、この小説は推理アドベンチャーゲームのような構造をしています。

 

 まず、第1の関門はそもそもこの小説が「推理小説」であることに気付くことができるかです。作者はこの小説が「推理小説」であるとは、一言も言っていません。

しかし、重要なのはシロが「狂言」などではなく現実にレイプされ、妊娠した事実、そして殺された事実です。これはクロへの巡礼の中で強調されています。現実に事件が発生した以上、そこには現実の犯人、現実の「根源的な悪」が存在します。

しかし、誰も犯人を推理しようとせず、真相を明らかにしようとする人間が出てこない限り、「根源的な悪」は存在を認識されることすらありません。「根源的な悪」が小説世界に存在するにも関わらず、その存在は影に隠され「根源的な悪」はのうのうとして生き続けるのです。犯人の完全勝利です。

 

これは、小説では多崎つくるが16年の間、真実を知ることから逃げ出している状態を指します。そして、主人公が沙羅の巡礼の誘いを拒否し、真実を求めることを拒否し続ければ物語はここで終了(愛想を尽かした沙羅は永遠に彼の元を去ります)、Bad Endです。物語をスタートさせるには、主人公は真実から逃げることをやめ、真相を知る巡礼の旅に出なくてはいけません。

 

2の関門は、「オカルト的解釈」の罠です。この罠は、多崎つくるに向けてというより、読者に向けて設置されています。村上春樹作風を知る読者の中には、この小説を読みながら「この小説は一見リアリズム小説なのだが、村上春樹のことだからどうなのだろう。どこかで、ファンタジーやオカルトの要素が入ってくるのではないだろうか?」と思う人もいるでしょう。

そして、そのような読者を罠にかけるべく、「オカルト的な解釈」もできるような余地をわざと村上春樹は設置しています。この作者の誤った誘導に引っ掛かって「オカルト的な解釈」をしてしまうと間違った犯人を推理してしまうのです。こちらを選んでもBad Endです。

 

 小説では、多崎作(つくる)くんは、鈍感すぎてオカルトへは誘導されません。あるいは作(つくる)くんの実際的な性格が、事件に対してオカルト的な解釈をすることを許さなかったのです。(「オカルト」解釈の罠の詳細については、「この小説の構造は?②」で検討します。②は、こちらをご覧ください。

 

 第3の関門は、「多義的な解釈」の罠です。村上春樹のこれまでのほとんどの小説はファンタジー的(現実にはありえないような)展開をしたり、メタファーを多用したりしています。これは読者が物語に対して自由に多義的な解釈ができるようにするためです。

 しかし、この小説は「推理小説」です。特定の犯人を突き止め、真相に至るのに、「多義的解釈」は推理の妨げになります。推理小説的には、「真実」はひとつなのです。

 

 この罠は、おもにクロ(エリ)への巡礼においてされます。エリに対して多崎つくるは「そして僕はユズを殺したかもしれない(ある意味において)」。と言います。エリも「ある意味においては、私もユズを殺した」と言います。つくるとエリを含むグループのメンバーがユズの問題に気がつくことができなかったことに責任を感じ、「私が殺したようなものだ」と思うのは、ある意味においては当然かもしれません。

しかし、「(ある意味において)私(僕)がユズを殺した」などと多義的な解釈あるいはメタファーに逃げるのは、実際には真実を知りたくない「逃げ」でしかありません。つくるもエリも「悪いこびとたち」が怖くて真実から耳をふさぎ逃げているに過ぎないのです。

 

 そして、真実を知りたくないエリは自分自身も意識しないままに、最後の誘惑の罠をつくるに仕掛けようとします。「ただ、彼女がその男の人と一緒にいたところを見たと言っては駄目よ」と。つくるがこの忠告に耳を傾け、「男の人」について沙羅に問わなければ、その正体の真相は明らかにされず、男は多義的に解釈できる段階に留まり続けます。これは、しばらくの安寧をつくるにもたらすかも知れませんが、多崎つくるが真実を問わないことは最終的に悪い結果をもたらします。((クロの忠告を守ったときのシミュレーション)参照)これもまたBad Endです。

 

 クロへの巡礼の後と別れた後、多崎つくるは「身体の中心近くに冷たく硬いもの」があることに気づきます。クロへの巡礼ではまだ真実は明らかにされず、問題は依然として残っているのです。

 

この後、小説では、多崎つくるはエリの忠告を守らず(「多義的な解釈」の罠への誘惑に掛からず)、真実を沙羅に問います。つくるが沙羅に真実を問うことにより、沙羅によって真実への扉は開かれるのです。(「多義的な解釈」の罠の詳細については、「この小説の構造は?③」で検討します。③は、こちらをご覧ください。)

 

 前のページで触れた、村上春樹氏の講演でのうっかり発言は、第2の関門「オカルト的解釈」の罠に関わるものです。彼の講演での発言が産経新聞の記載通り(「現実と非現実が交錯しないリアリズム小説を書こうと思った」)であるならば、「『オカルト的な解釈』は間違いです」、と言ってしまったようなものです。村上氏は、言ってしまってから「しまった、サービスし過ぎた」と思ったことでしょう。

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その5 村上春樹氏講演(5月6日)の真意は?

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。 

(前のページに戻る) 

平成2556日に京都大学村上春樹氏の「公開インタビュー」が行われました。

各新聞に講演の概要が掲載されています。掲載された講演の概要のうち、「推理小説的」に重要な部分を抜き出して引用してみました。(いずれもWeb記事です。) 

 

①「産経新聞」平成2556日配信(下線は筆者によるもの)

(引用開始)

(前略)

「色彩を持たない-」については「前作『1Q84』は日常と非日常の境界が消失する小説だったが、現実と非現実が交錯しないリアリズム小説を書こうと思った」としたうえで、「全部リアリズムで書いた『ノルウェイの森』は文学的後退だと批判され、今回も同様のことが言われるかもしれないが、僕にとっては新しい試みだった」と振り返った。

(後略)

(引用終了)

  

②「時事通信社」平成2556日配信(57日更新) (下線は筆者によるもの)

(引用開始)

(前略)

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に触れ、前作「1Q84」で日常と非日常の境が消失した世界を描いたのに対して「今回は、表面的は全部現実だが、その底に非現実があるというものをやりたかった。新しい文学的試み」などと語った。

(後略)

(引用終了)

 

さて、①と②の下線部についてですが、似ているようで言っていることが全然違います。①だと「この小説は100%のリアリズム小説。非現実は交錯しない。」と言っているのに対して、②だと「この小説は一見リアリズム小説に見えるけど、その底には非現実世界があるんだよ。」と言っている訳で矛盾していると言っていいです。どちらかが正しくてどちらが間違っているのでしょうか?あるいは、どちらも間違っているのか?あるいは、どちらも正しいのか?

 

 私の考えでは、たぶん講演ではどちらも話しているのかな、と思います。まず、①下線部のような発言をした後で、内心「しまった、ネタバレしすぎた。」と思って、その後で②下線部のように、①下線部の発言と矛盾するような発言をして講演の来場者を(そして読者を)けむに巻いたのではないでしょうか?

 

①下線部の発言がもし村上春樹氏が本当にされたのだとしたら、かなり「核心をついたネタバレ発言」であって、基本的にネタばらしをしないはずの村上春樹氏としてはうっかり発言と言わざるを得ません。次のエントリーでは、なぜ、この発言がうっかり発言なのか、この小説の構造について詳細に検討いたします。

 

余談ですが、日本経済新聞(平成2557日配信)では、(以下引用開始)「『生身の人間に対する興味が出てきた』」(以上引用終了)と語っているとあります。なかなか意味深ですね(直接的には登場人物が増えたことの説明みたいですが)。

 

 あと「新しい試み」というのはおそらく「リアリズム小説」のことではないですよね。既に「ノルウェイの森」でやっていますので。私としては「推理小説」を書いたのが村上春樹氏の密かな「新しい試み」なのではないかと思っているのですが。

 

 とはいえ直接講演に参加した訳ではないので、あくまで新聞からの推測です。実際に参加された方がいらっしゃいましたら、情報提供してくださると嬉しいです。よろしくお願いします。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その4 「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」はいつの年の話?(平成25年5月9日追記あり)

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 (平成25年5月9日追記しました。) 

 

(前のページに戻る)

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はいつの年の話なのでしょうか?

 多崎つくるがグループから「追放」され、彼が死に近づいた年は、(日本人である)多崎つくるにとって、また作家村上春樹にとって、あるいは日本人全体にとって象徴的な年であるはずです。

 結論からいうと、彼が「追放」され死に近づいた年は、1995年、阪神淡路大震災及びオウム真理教地下鉄サリン事件の起こった年です。(45ページのニュース画像の比喩は大震災の起こった年であることを暗示しています。)

 彼の年齢は、彼がグループから追放され死に近づいたこの年が、彼が「少年」から「大人」に変わる通過儀礼の年であることを示しています。彼はこの年20歳になり成人します。そして年が改まり1月になって、彼は死をくぐりぬけ、「少年」である彼は死に、「大人」の彼として再生します。どうでもいい話ですが、1月は成人式の日があります。

 

 では、現在(彼が巡礼を始めた年)はいつなのでしょうか?これは2説考えられます。

 

 ひとつの説は暦年を重視した場合です。この小説では、「(グループから追放された年から)16年」という言葉が何回か出てきます。単純にこれを暦年と考えれば2011年、東日本大震災及び福島原発事故の年になります。

 しかし、この説だと彼の年齢は35歳でないといけません。彼の誕生日は11月だと考えられます。これは131ページにつくるが初めて女性と性的関係になったとき(おそらくこれは5月)21歳と6か月だったという描写からわかります。(追放された翌年に灰田と出会い、その次の年に灰田が去った年のことです。)

 しかし、彼の巡礼の時期は5月~6月または7月にかけてのことです。まだ、彼は誕生日を迎えていないため、2011年説では彼は現在35歳であるということになってしまいます(年齢は作者の単純な間違いなのかも知れませんが)。

 

 もうひとつの説は、年齢を重視した場合です。これも複数回、多崎つくるは現在「36歳」である描写がされています。そうすると、現在は2012年ということになります。しかし、なんか多分「16年」て、7月に追放された時点を起点にしていると思うんですよね。2012年が正しいとすると正確には16年と1011ヶ月前ってことになってしまい、まあ16年でも間違ってはいないけど、なんかね、という感じがします。

 

 私としては象徴的な意味でも前者(2011年説)をとりたいのですが、皆様はどう思われますか?

 

(平成2559日追記)

(※この時点では、下記のように考察して、2012年説をとりましたが、コメントの指摘を受け読み直したところ、結局2011年説の方が妥当かと思われます。)

 

 上記では、2011年説を推しましたが、改めて考えてみると、やはり小説の「現在」の年は2012年なのだと思われます。やはり2011年だと年齢がおかしいです。

 想像ですが、作者は当初「現在」の年代設定を2011年で予定していたのだと思います。「16年」の強調は象徴的な年である1995年から同じく象徴的な2011年への16年を意味しているようにしかみえないのですね。

 

 しかし、この小説の「現在」の物語がはじまるのが2011年の5月だとすると、東日本大震災から2ヶ月しか経っておらず、まだ原発事故や節電等で、騒然としていた頃です。あまり恵比寿のバーで優雅に飲んでいるような雰囲気でもないのですね。まあ実際には節電が叫ばれたとはいっても、レストランもバーも普通に営業してはいましたが。

この時期に、東京の街の景色や雰囲気に震災の影響(節電など)が全くなく、全ての登場人物達の言動が大震災や原発事故についてまったく触れることがないのは、やはり極めて不自然であると作者は考えたと思われます。一方で、この小説で東日本大震災原発事故について明示的に触れてしまうと、非常に重い問題であるが故に本作のテーマを大きく変えてしまいかねません。このため、20115月の東京をこの小説の「現在」の舞台にはできないと作者は考え、小説の「現在」の年を2011年から変えたのだと思います。

しかし、やはりこの小説は2011年を通過したものです。この小説は2011年をきっかけに、1995年に思いを巡らす巡礼の旅なのです。だから、「現在」は2011年より後になります。「現在」は2012年です。2013年以降は年齢・年の計算が合いませんのでもちろん除外です。)

 

*また、細かい話ですが、カレンダー的にも小説の現在は2011年ではなく、2012年であることを示しています。

 

2012年の場合)つくるは、5月の終わりに週末にかけて3日間(土・日・月)アオ、アカに会いに名古屋へ行きます。2012年ですと、52628日です。翌日(29日)沙羅から電話があって、明後日(31日)に沙羅と広尾で会って、来月(6月)になれば仕事が一段落するのでフィンランドに行きたいと言います。その週末(62日)の2週間後(616日)フィンランドへ行きます。という感じでカレンダー通りスムーズに話は進みます。

 

2011年の場合)つくるは、5月の終わりに週末にかけて3日間(土・日・月)アオ、アカに会いに名古屋へ行きます。2011年ですと、52830日です。翌日(31日)沙羅から電話があって、明後日(62日)に沙羅と広尾で会って、来月(7月)になれば仕事が一段落するのでフィンランドに行きたいと言います。しかし、これでは7月につくるがフィンランドに行く予定だという話になってしまいます。実際には、その週末(64日)の2週間後(618日)フィンランドへ行くことになるため、これではつじつまが合いません。やはり2011年ではおかしいです。

 

(平成29年2月6日追記)

 上記の(平成25年5月9日追記)では、2012年説が有力としたのですが、grasshopperさんの コメントのとおり、つくるがフィンランドへ行ったのは7月のようです。とすると、2011年説の方が有力ということになります。「週末」は、「今週末」ではなく、2~3週間後の週末だったみたいですね。grasshopperさん、ご指摘有難うございます。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)