「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

余談 その7 この小説の構造は?②~緑川の話、灰田、「オカルト」の扉

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。(本文内に京極夏彦鉄鼠の檻」の引用があります。あらすじの紹介ではなく、用語の解説としての引用です。)

(このエントリーは、あくまで「推理小説的な解釈」をしています。「そんなふざけた解釈するな!」と言わずにまあ、聞いてください。)

 

 灰田及び緑川の話は一体何だったのか?これは、作者がこの小説の中に「オカルト」色を出して読者を惑わすための仕掛けです。

 推理小説ではよくある仕掛けですね。周りの人たちが、いわゆる「○○の呪い」だ、「□□の祟り」だ、といって事件をオカルト的な超常現象のせいにしてしまい、人間の犯人は存在しないかのように思い込んでしまう仕掛けです。大体の場合は名探偵が登場して、「『○○の呪い』なんてない!犯人は実在する!」と言って真犯人を当ててしまうわけですが。

 

 ただ、この小説ではそもそも「これは一体、どういったオカルトなのか。」ということがわかりにくいです。それは、作者が読者自身に「オカルト」的な推理(これはミスリードなわけですが)をさせるためです。あまりにもあからさまなオカルト話だと荒唐無稽だとして誰も信じないか、あるいは、「この小説は、そういうオカルト話なのだ」と信じ込んでしまって、誰も推理自体をしようとしなくなります。この小説は名探偵が出てこないので、誰も種明かしをしてくれないのです。

 

このため、まず、以下に緑川の話と灰田の「オカルト的解釈」を説明します。「オカルトの世界」とは、悪魔や魔法が存在する世界です。

 

1.緑川の話と灰田の「オカルト的解釈」

 

 第1に緑川の話は、普通に考えれば、自分の魂やら寿命と引き換えに、特殊な力を得、魂(寿命)の回収を避けるには、代わりの生贄を捧げなくてはいけないという話です。これは、典型的な「悪魔との契約」です。緑川は、「悪魔と契約した男」です。そもそも緑川の話は、「悪魔というものを信じるか?」という話から、核心的な話がはじまっています。

 

 第2に小説内で駅員に「フィクション上の人物では「羊たちの沈黙」の『レクター博士』」「中世のヨーロッパでは六本の指を持つ人間は魔術師や魔女として焼かれた」などと語らせているように、この小説では多指症は、「魔術師」あるいは「悪魔的な人物」のメタファーとして扱われています。多指症である緑川は、悪魔と契約した「魔術師」であることを暗示しています。

 

第3に「知覚の扉」とは何か?ということです。私は前に「悟りの境地」に近い話なのではないかと書きましたが、これは、実は「悟りの境地」と似て非なる「魔境」なのかもしれません。

仏道修行(ここでは座禅)を続けていると、感覚が研ぎ澄まされ、「『普段見えぬものが見えて来る。聞こえる筈のない音-例えば禅堂の外の枯葉が一枚枝から外れている時の音-が聞こえたりする』」「『それにそう云うことが続くと、例えば普段見ている景色が矢鱈に新鮮に見えて来たりする。世界が新しくなったような、清浄な気持ちになれる。それこそ仏境界かと云う気に』」なります。しかし、これは「悟りの境地」などではなく、「『それこそが魔境なのです』」「『悟ったような気分にさせるただの魔境』」です。(「太字部分」京極夏彦鉄鼠の檻」(講談社)からの引用です。)

修行者は上記の感覚を「悟りの境地」と誤解してしまう場合もありますが、禅宗では、これを「魔境」といって「悟りの境地」ではなく、むしろ「悟り」への修行を妨げるものだとしています。

ところが、この「魔境」を悪用して、「仏道修行をすると超能力が身につく!」と言って信者を勧誘した新興宗教があります。「オウム真理教」です。修行をして「魔境」を体験した信者たちは、「修行したら、本当に超能力が身についた!」と思い込み、ますます教祖への信仰を厚くすることになります。

 

ということで、緑川の話は、(自らがセールストークと言っているとおり)、邪悪な宗教的なものへの勧誘を意味しています。

「跳躍」という言葉もうさんくささ倍増です。「跳躍」といえば、あのオウム真理教の「跳躍」写真を想起させます。

 

第4に、なぜ、灰田はこの話をつくるにしたのでしょうか?この話をするときはいつの時でしょうか?もちろん、緑川の言うところの「セールストーク」の時です。つまり、灰田は多崎つくるに「セールストーク」をしていたのです。

ということは、灰田が話をした内容には嘘が混じっていて、緑川から灰田へ「トークン」は受け継がれていたのです。受け継いだのは今でも生きている灰田父ではありません。灰田は自分自身の話を、父親の話として話したのです。

 

第5に、灰田とは、何か。ということですが、多崎つくるが会った灰田は人間ではありません。「悪魔的な存在」です。15年後(現在)、多崎つくるは灰田と会っています。しかし、灰田は灰田の外見ではなく、全く別人になり変わっています。ただ、水泳の動きで多崎つくるは、その人が灰田であることを認識したのでした(現実的なつくる君は、結局人違いだと片付けてしまいますが)。

 

つまり、「悪魔的な存在」は魔術師の資格のある多指症の人間に近づき(当然、「悪魔的な存在」は多指症の人間を見分けることができます)「魔境」を体験させることを条件にその人の存在そのものを要求します。契約が成立して約束の期限になると、「悪魔的存在」は彼の身体を乗っ取ります。

 

これは、言うまでもなく邪悪な新興宗教(オウム真理教)のメタファーです。邪悪な新興宗教の「セールストーク」を受けて、「超能力」に興味を持ち入信した者は、「魔境」を体験して「超能力」を得たと感じたことにより教祖への帰依を深めることになるのですが、それと引き換えに信者は教祖によってマインドコントロールされ自分という存在を失い、教祖の人格に同化するのです。

 

そして、小説世界では乗っ取られた人間は死に、「悪魔的な存在」は、乗っ取った人間の外見を得ることになります。灰田にセールストークをした緑川については、既に死んでいて緑川の外見の「悪魔的存在」だったのか、それともまだ生きていて、灰田を悪魔に生贄に捧げて、自分は生き延びるためにセールストークをしていたのかは分かりません。

灰田は、実際には緑川のセールストークを受けて興味を抱き「悪魔的存在」と契約したのです。「魔境」を体験した後、「悪魔的存在」に身体を乗っ取られた灰田は死にます。そして、灰田の外見をまとった「悪魔的存在」は、多崎つくるに近づくのです(おそらく、多崎つくるも多指症だったのですが、自分では手術を受けたことを覚えていないのでしょう)。しかし、多崎つくるは持ち前の鈍感さを発揮し、また現実的な性格だったため(父親の「作」の命名が効きました)、セールトークは効を奏しませんでした(あるいは、小説内では途中まで「人間」としての灰田は生きていて、おそらくつくると会わなかった10日の間に死んで「悪魔的存在」の灰田になり変わったのかもしれません。これは、どちらか分かりませんね)。

 

第6に緑川の話をした後の夜の出来事は何か?ということです。まず灰田は、その悪魔的な力を行使して、多崎つくるを金縛りにします。そして、夢の中で多崎つくるはシロを犯します。それは灰田という(悪魔的存在の)媒体を通じ、時空を歪めされた夢の回路を通って、過去の現実のシロを犯したのです。そして彼女は妊娠します。

 

第7にシロを殺したのは、誰か?これは、「灰田であった『悪魔的な存在』」です(以下、単に「灰田」としているのは、「灰田であった『悪魔的な存在』」という意味です)。多指症の話は、6番目の人間が犯人であることを指し示しています。5人のメンバーの後に出てきた6番目の男、灰田が犯人です。鍵はどうしたって?「悪魔的存在」の前には鍵など無効です。

 なぜ、「悪魔的存在」は、多崎つくるにシロを犯させ、シロを殺したのか?それは、トートロジーですが「悪魔的存在」だからです。悪魔は、人に悪霊としてとりつき、また人を殺すのです。

 また、灰田は「ル・マル・デユ・ペイ」を通じて、(多崎つくるを介して)シロ(白根柚木)とつながっています。灰田が「巡礼の年」のLPを多崎つくるのマンションに残したのはわざとです。彼は「巡礼の年」を媒介にしたのです。

 ((平成25年5月19日追記)wikiによると、フランツ・リストは「その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には『指が6本あるのではないか』という噂がまともに信じられていた。」そうです。もちろん、「噂」であって「事実」ではありませんが。また、リストは「ピアノの魔術師」とも呼ばれています。)

 

第8に、灰田の首に傷があるのは、彼が「頭を失った」ことを暗示しています。彼が悪魔的存在に身体を乗っ取られ、自ら思考する頭も奪われたことの比喩として首の傷はあります。

 

 2.「オカルト的解釈」か、「リアリズム的解釈」か

 

言うまでもないことですが、上に書いたことは全部でたらめです。現実では起こりえないことをいくら解釈しても現実には起こらないのです。しかし、村上春樹は灰田に関しては「オカルト」的なジャンクを小説のあちこちにばらまいて、読者が「オカルト的解釈」もあるのかもしれないと誤った方向へ進むよう、罠を張っているのです。「オカルト的解釈」の恐ろしいところは「一見もっともらしいが、実際には何でもありだ」ということです。何でもありなので、いくらでも都合よく解釈が可能なのです。しかし、オカルト的解釈に引き寄せられれば引き寄せされる程、真実からは遠ざかり犯人は捕まらず、犯人の勝利になります。

ここまで読んで「いや、でも村上春樹のことだからやっぱり『オカルト的解釈』も有り得るんじゃね?」と思われた方のために以下補足します。

 

第1に、ここまで本編をお読みになられた方は分かると思いますが、この小説の「リアリズム的解釈」の枝は、構築がしっかりしています。この小説の謎や手がかりは巧妙に仕掛けられ、隠されていますが、その構築に沿って推理しようと思えば、整然と論理的に謎は解け、真相は明らかになります。

これに対して「オカルト的解釈」の枝は、ジャンクです。構築がはっきりしておらず、犯人を推理するにはご都合的な解釈や、強引な無理やり解釈が必要です。上記の「オカルト的解釈」でもかなり強引な解釈をしています。これは、もともと誤った枝なのだから当たり前です。

 

第2に、緑川の話自体が、この小説の比喩になっているのです。仏教の修行で、「魔境」の体験を「悟りの境地」と勘違いしてしまうと、むしろ「悟りに至る道」への妨げになります。これと同じように、「緑川の話」から始まるオカルト的な展開を「これが真実への道だ!」と誤解して「オカルト的解釈」をしてしまうと、誤った犯人を推理してしまい、事件の真相へたどりつけなくなるのです。

 

第3に、灰田について邪悪な描写はありません。灰田の正体が「悪魔的な存在」であるならば、どこかに邪悪な影の描写が無くてはいけませんが、灰田はあくまでクリーンな存在として描写されています。多崎つくるも「しかしつくるはそれを不穏なもの、邪なものとしては感じなかった。何があるにせよ、灰田が自分に対して良からざることをするはずがない-そういう確信に近いものがつくるにはあった。それは初めて彼に出会ったときから一貫して感じていたことだった。いわば本能的に。」と感じています。

灰田は邪悪な存在ではありません。

 

 第4に、村上春樹の過去の「ファンタジー小説」(ここでいう「ファンタジー小説」とは、ハリー・ポッターのようなファンタジー小説の意味ではなく、「現実には起こりえないことが小説内では発生する小説」程度の意味です)では「夢の回路」が重要な役割をすることがあります。このため、「オカルト的解釈」の第6のように、村上春樹の小説世界では「夢の回路」を通じて多崎つくるが過去のシロを犯すこともあり得るのではないか、という意見もあるかもしれません。

 しかし、過去の作品の「夢の回路」は「同時性」が重視されています。時間を遡って過去の世界に干渉することは有り得ません。

 また、多崎つくるの精液は灰田の口に受け止められ、その後洗面所で口をゆすいでいる描写があります。精液は時空を飛び越えてどこかへは行ってはいません。この小説の中では「夢の回路」は存在しないのです。

 

(緑川の話と灰田の「リアリズム的解釈」については(灰田①・・・緑川の話は?)を参照願います。)

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