「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

余談 その6 この小説の構造は?①~3つの関門

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

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 さて、このBlogでは、この小説は「推理小説」であると繰り返し述べているところですが、もちろんこの小説は普通の「推理小説」とは違います。具体的に犯人の推理に入る前に読者は3つの関門を突破しないといけません。例えて言うなら、この小説は推理アドベンチャーゲームのような構造をしています。

 

 まず、第1の関門はそもそもこの小説が「推理小説」であることに気付くことができるかです。作者はこの小説が「推理小説」であるとは、一言も言っていません。

しかし、重要なのはシロが「狂言」などではなく現実にレイプされ、妊娠した事実、そして殺された事実です。これはクロへの巡礼の中で強調されています。現実に事件が発生した以上、そこには現実の犯人、現実の「根源的な悪」が存在します。

しかし、誰も犯人を推理しようとせず、真相を明らかにしようとする人間が出てこない限り、「根源的な悪」は存在を認識されることすらありません。「根源的な悪」が小説世界に存在するにも関わらず、その存在は影に隠され「根源的な悪」はのうのうとして生き続けるのです。犯人の完全勝利です。

 

これは、小説では多崎つくるが16年の間、真実を知ることから逃げ出している状態を指します。そして、主人公が沙羅の巡礼の誘いを拒否し、真実を求めることを拒否し続ければ物語はここで終了(愛想を尽かした沙羅は永遠に彼の元を去ります)、Bad Endです。物語をスタートさせるには、主人公は真実から逃げることをやめ、真相を知る巡礼の旅に出なくてはいけません。

 

2の関門は、「オカルト的解釈」の罠です。この罠は、多崎つくるに向けてというより、読者に向けて設置されています。村上春樹作風を知る読者の中には、この小説を読みながら「この小説は一見リアリズム小説なのだが、村上春樹のことだからどうなのだろう。どこかで、ファンタジーやオカルトの要素が入ってくるのではないだろうか?」と思う人もいるでしょう。

そして、そのような読者を罠にかけるべく、「オカルト的な解釈」もできるような余地をわざと村上春樹は設置しています。この作者の誤った誘導に引っ掛かって「オカルト的な解釈」をしてしまうと間違った犯人を推理してしまうのです。こちらを選んでもBad Endです。

 

 小説では、多崎作(つくる)くんは、鈍感すぎてオカルトへは誘導されません。あるいは作(つくる)くんの実際的な性格が、事件に対してオカルト的な解釈をすることを許さなかったのです。(「オカルト」解釈の罠の詳細については、「この小説の構造は?②」で検討します。②は、こちらをご覧ください。

 

 第3の関門は、「多義的な解釈」の罠です。村上春樹のこれまでのほとんどの小説はファンタジー的(現実にはありえないような)展開をしたり、メタファーを多用したりしています。これは読者が物語に対して自由に多義的な解釈ができるようにするためです。

 しかし、この小説は「推理小説」です。特定の犯人を突き止め、真相に至るのに、「多義的解釈」は推理の妨げになります。推理小説的には、「真実」はひとつなのです。

 

 この罠は、おもにクロ(エリ)への巡礼においてされます。エリに対して多崎つくるは「そして僕はユズを殺したかもしれない(ある意味において)」。と言います。エリも「ある意味においては、私もユズを殺した」と言います。つくるとエリを含むグループのメンバーがユズの問題に気がつくことができなかったことに責任を感じ、「私が殺したようなものだ」と思うのは、ある意味においては当然かもしれません。

しかし、「(ある意味において)私(僕)がユズを殺した」などと多義的な解釈あるいはメタファーに逃げるのは、実際には真実を知りたくない「逃げ」でしかありません。つくるもエリも「悪いこびとたち」が怖くて真実から耳をふさぎ逃げているに過ぎないのです。

 

 そして、真実を知りたくないエリは自分自身も意識しないままに、最後の誘惑の罠をつくるに仕掛けようとします。「ただ、彼女がその男の人と一緒にいたところを見たと言っては駄目よ」と。つくるがこの忠告に耳を傾け、「男の人」について沙羅に問わなければ、その正体の真相は明らかにされず、男は多義的に解釈できる段階に留まり続けます。これは、しばらくの安寧をつくるにもたらすかも知れませんが、多崎つくるが真実を問わないことは最終的に悪い結果をもたらします。((クロの忠告を守ったときのシミュレーション)参照)これもまたBad Endです。

 

 クロへの巡礼の後と別れた後、多崎つくるは「身体の中心近くに冷たく硬いもの」があることに気づきます。クロへの巡礼ではまだ真実は明らかにされず、問題は依然として残っているのです。

 

この後、小説では、多崎つくるはエリの忠告を守らず(「多義的な解釈」の罠への誘惑に掛からず)、真実を沙羅に問います。つくるが沙羅に真実を問うことにより、沙羅によって真実への扉は開かれるのです。(「多義的な解釈」の罠の詳細については、「この小説の構造は?③」で検討します。③は、こちらをご覧ください。)

 

 前のページで触れた、村上春樹氏の講演でのうっかり発言は、第2の関門「オカルト的解釈」の罠に関わるものです。彼の講演での発言が産経新聞の記載通り(「現実と非現実が交錯しないリアリズム小説を書こうと思った」)であるならば、「『オカルト的な解釈』は間違いです」、と言ってしまったようなものです。村上氏は、言ってしまってから「しまった、サービスし過ぎた」と思ったことでしょう。

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