「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ⑥~「悪霊がとりついた人間」を我々は赦すことができるのか?
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*激しくネタバレしています。ご注意願います。
後期村上春樹作品において「根源的な悪」との対決が大きなテーマであることについて述べました。その物語の中で、「根源的な悪」に壊され、損なわれた人間も出てきます。
「根源的な悪」によって損なわれた人間が、他の人間や社会に恨みを抱き、自ら悪をなすことがあります。これが「悪霊がとりついた人間」です。地下鉄サリン事件は、根源的な悪によって自分を失った人間たちが悪をなしました。「悪霊がとりついた人間」が悪をなしたのです。
この小説では、「悪霊がとりついた人間」であるシロ(柚木)が登場します。シロによって被害を受け傷ついた多崎つくるは、長い巡礼の末彼女もまた被害者であったことに気が付き、彼女を赦します。
しかし、多崎つくるは決して「悪霊」の悪意の直撃を受けたわけではありません。「悪霊」の悪意の直撃を受けたことによって、自分が破滅したり、大切な人を殺されたりした場合に、本当に「悪霊がとりついた人間」を赦せるのか?そもそも、赦す必要があるのか?これは、重く結論の出ない問題です。
(以下、太字部分は村上春樹氏の、ニューヨーカーへのボストンマラソンテロ事件を受けての寄稿文から引用しました。)
しかし、「Seeking revenge won’t bring relief, either.(また、復讐を求めることも、安心を得ることはできません。)」復讐は、更なる悪意を増幅させ、「根源的な悪」の栄養分となります。
「We need to remember the wounds, never turn our gaze away from the pain, and—honestly, conscientiously, quietly—accumulate our own histories.(我々に必要なのは、傷を忘れず、苦痛から決して目をそらさず、そして―誠実に、意識的に、静かに―我々自身の歴史を積み重ねることです。)」
そして、彼ら(「悪霊のとりついた人間」)を赦すことができなくても、彼らもまた被害者であったことを、我々は理解することが必要です。
以上で書評を終わります。また、当初このblogで書きたかったことは以上です。(今後思いついたことがあれば、また書くかもしれません。また、「まだ、この小説のこの部分が疑問なんだが」というのがありましたら、コメント欄にコメント願います。的確に答えられるか分かりませんが、一緒に考察してみます。)
次回からは、村上春樹作品(長編)全般の書評・感想・謎解きを行いたいと思います。新ブログ「謎解き 村上春樹」を立ち上げましたのでご覧ください。初回は、「ノルウェイの森」の予定です。よろしくお願いします。
(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)