「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ⑦~真実は追求されるべきか?

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

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  以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

書評はで終わりにしようと思っていましたが、ちょっと引っかかっていた点があり補足します。

村上春樹氏のニューヨーカーへの、ボストンマラソンテロ事件を受けての寄稿文に以下のような一節があります。

Why? I can’t help asking. Why did a happy, peaceful occasion like the marathon have to be trampled on in such an awful, bloody way? Although the perpetrators have been identified, the answer to that question is still unclear. But their hatred and depravity have mangled our hearts and our minds. Even if we were to get an answer, it likely wouldn’t help.なぜ?私は答えることができません。私は問わずにはいられません。(デルスーさんのご指摘により訂正します。)なぜ、マラソンのように幸福で平和な機会がこのような恐ろしく血みどろの方法で踏み潰されなければならないのでしょうか。加害者が特定されたとしても、質問への答えはいまだにはっきりしません。しかし、彼らの憎しみと邪悪さは私たちの心と魂を切り裂きました。たとえ答えを見つけたとしても、それがわたしたちを助けてくれないでしょう。)」

このメッセージは、この小説の沙羅の「真相は追求されるべき、主人公は目を逸らさずに真相と向き合うべきだ」というメッセージと矛盾するのではないか?と思いました。しかし、よく考えてみますと、スピーチのメッセージと沙羅のメッセージは矛盾していない、あるいはこの矛盾した立場が現在の村上春樹の立ち位置なのではないかと考えます。

 

この寄稿文には前述したようにSeeking revenge won’t bring relief, either.(また、復讐を求めることも、安心を得ることはできません。)」という一節があります。この事件が起きたときに村上春樹は事件の犠牲を深く悲しむとともに、この事件が911後に起こったアメリカの対テロ報復戦争のような報復戦争が起こるきっかけにならないように深く警戒しています。

真相を求めるということは、必ずしもいつも正解にたどり着くとは限りません。緑川の話は、真実を求めた結果が間違った真実にたどり着いてしまう危険性を暗示しています。また、真相を求める行為というのは、安易な犯人探しに堕してしまう危険性があります。我々が事件の真相を求める時、本当に真相を求めているのでしょうか?犯人を探して報復することの方を求めている場合もあるのではないでしょうか。犯人を探しても見つからないとき、我々はその事実に納得できません。疑わしい人間を犯人として決め付けたりすることもあります。疑わしい人間がいなければ、報復する標的をつくるために犯人を仕立て上げることすらあります。911後にアメリカが報復のために起こした愚行、そしてそれを多くのアメリカの普通の市民達が支持したことを思い出すと、我々は、はじめに真相を求めるための行為だったはずのものが、報復する標的をつくるために犯人を仕立て上げるまでに堕する可能性に思いをしなければいけません。

このため、村上春樹は「たとえ答えを見つけたとしても、それがわたしたちを助けてくれない」と書きます。真実を求めることが、わたしたちの助けになるとは限りません。むしろ真実を求めた結果が、間違った真実や、報復という結論に辿りつくぐらいなら、真相など知らなくても良いのだとすら村上春樹は考えています。真相を知らなくても、我々は同じ傷で繋がっていることがわかり、犯人もまた被害者であることを理解すれば相手を赦すこともできるかもしれません。実際には難しいことですが。

しかし、一方でこの小説では「沙羅」という「真実を求めるべき」というキャラクターが登場し、主人公を導きます。

村上春樹氏へのインタビューに以下のように書かれています。(以下、平成2556日 産経ニュース(web版)より引用)

今回、短い小説にするつもりだった。(原稿用紙)70~80枚くらいの。多崎つくるが、再生していく話なんだけれど、名古屋の(高校時代の親友)4人を書かないで、(絶縁された)理由も書かないつもりだった。でも書いているうちに4人のことがどうしても書きたくなった。多崎つくるくんに(つくるの恋人の)木元沙羅が言います。(みんなに)会いに行きなさいと。つくるくんに起こったことがぼくに起こったんです。書きなさいと、沙羅に言われたんです。こういうふうに人を書いたのは初めてでした。

木元沙羅は僕をも導いている。書きなさいと。不思議な存在ですよね。導かれるというのが僕にとって大事。」

 村上春樹のインタビューによると最初の小説は、沙羅も、絶縁された理由を知る機会も、巡礼も存在しませんでした。とすると、この小説は主人公が絶縁された理由を全く知らないままに、ある事をきっかけに(ある事とは東日本大震災だと思われます)彼らも彼を絶縁したことによって傷ついた被害者だということに直感的に気が付き、彼らを赦す、そのことによって主人公が再生していくという話になっていたと思われます。おそらく読者にはわけのわからない話になっていました。よくある村上春樹のわけのわからない短編の1つとして「一種の不条理小説」「抽象的な実験作」として解釈されたでしょう。

 ところが、そこに沙羅が現れました。そして、主人公は真実を知るべきだと言って主人公を、真相を求める巡礼の旅へ導きます。村上春樹の主人公は、だいたいの場合作者の分身です。そして、作者の分身である主人公の行動によって物語が進みます。しかし、沙羅は作者の分身ではありません。沙羅は自分(作者)の中の他者です。自分の中の他者である沙羅に導かれ物語は展開していきます。主人公は沙羅に導かれるように(というか引きずられるように)して行動しますが、これは作者自身が沙羅に引きずられるようにこの小説を書いたことを示していたのですね。同じインタビューで作者は「(「色彩を持たない-」)は僕の書いた感じでは頭と意識が別々に動いている話です。」と言っていますが、これは「頭」が作者、「意識」が沙羅ということです。(その逆かもしれませんが。)

 つまりこの小説は、真相を求めることは危険が伴う、真相を知らなくても我々は赦すことができるという「多崎つくる」(村上春樹の分身)と、真相は求められなければいけない、そうでなければ我々は理解することができない、理解することが出来なければ、赦すこともできないという「沙羅」のせめぎあいで出来た作品です。せめぎあいというか一方的に沙羅に押されているように見えるのは私だけでしょうか・・・。

 巡礼に旅立ち、真実を知っていった多崎つくるは、全ての真相に到達する前にシロの傷を理解し、彼女を赦します。真実を知らなければ人は理解することもできないし、赦すこともできないという事実(沙羅)とともに、全ての真相を知ることができなくても人は人を理解できるし、赦すこともできる(つくる)というメッセージだと思います。

 そして「赦し」があった後、結局最後の真実を知りたいのか、という問題が残されています。水曜日に沙羅が真相を告げる、という前提でこのblogは進めてきましたが、沙羅が真相を告げずにつくるの元を去るという可能性も残されています。沙羅は、多崎つくるが「本当に真実を知りたい」ときだけ、真相を告げるつもりです。多崎つくるが午前4時前に沙羅にかけた電話は、これだけ切り取るとドン引きな方も多いかもしれませんが、沙羅にとっては、多崎つくるは真相を知ることを望んでいるというメッセージになります。しかし、電話のコールバックを取らないつくるは沙羅にとっては真相を知りたくないという意思だと受け取られたかもしれません。

最後の真実を知りたいのか、知りたくないのかは読者(プレイヤー)に委ねる形でこの小説は終ります。

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。新ブログ「謎解き 村上春樹」もよろしくお願いします。)