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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ②~主人公の孤独

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。「ノルウェイの森」「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊を巡る冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドへの言及があります。また、「ジョジョの奇妙な冒険」の引用があります。

 

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 以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

 村上春樹作品の主人公は「孤独」な主人公が多いですが、主人公の「孤独」といってもいろいろな種類があります。

 

1.ノルウェイの森」の主人公の孤独

 村上春樹の、以前の特に「前期」作品の主人公の性格は「空気」を読まない「世間」から外れた孤独な性格です。なぜ、主人公が孤独なのか?

 これは、主人公が特殊な体験をしているからです。主人公がどのような特殊な体験をしたのかは、「ノルウェイの森」で描かれています。(また、少なくとも「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊を巡る冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は、おそらく「ノルウェイの森」の主人公と同一人物です。同一人物といっても、全く同じ時空なのか、平行世界の同一人物なのかは分かりません。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の主人公もおそらく同一人物ですが、世界は別世界です。)

 

 主人公には高校時代に小さなコミュニティがありました。キズキと直子と僕によるわずか3人のよる、小さいが「乱れなく調和する」コミュニティです。しかし、このコミュニティはキズキの自殺によって崩壊します。直子とも一時疎遠になり、「僕」は慣れ親しんだコミュニティを失い「孤独」になります。

 このときの状態を「僕」は太字で強調しています。

 

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 

 これは、一般論ではなく、「僕」個人の体験であり、文字通りの意味です。

 大切な友人キズキを失った「僕」には、死者のキズキが(比喩的な意味ではなく本当に)見えています。この現実世界のあらゆるところに、死者であるキズキの存在を感じるのです。死者の存在を身近に感じる主人公は、既に半分死の世界に片足を入れている存在なのです。しかし直子がいる間は、同じ死者の存在を身近に感じる存在が少なくとも1人いたのです。直子が自殺した後は、コミュニティは完全に崩壊し、同じ感覚を感じることができる人間はいなくなり、本質的に主人公は「孤独」になります。緑とはこの感覚は共有できません。緑は、キズキと直子の死は共有していないからです。この小説の後、主人公と緑が結ばれるのか否か小説には書かれていませんが、たとえ主人公が緑と結ばれたとしても、主人公が本質的に「孤独」であることに変わりはないのです。

 

 この感覚は、例えば「ジョジョの奇妙な冒険」の花京院典明の感覚に似ています。

(以下、荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険」文庫版第17巻(集英社文庫)より引用)

花京院典明は自分のこの『法皇の緑』を見る時いつも思い出す。

小学校教師『花京院さんお宅の典明くんは友達をまったく作ろうとしません。そう嫌われているというよりはまったく人とうちとけないのです。担任教師としてとても心配です。』

母『それが・・・恥ずかしいことですが・・・親である・・・私にも・・・何が原因なのか』」

「子供の時から思っていた。町に住んでいるとそれはたくさんの人と出会う。しかし普通の人たちは一生で真に気持ちがかよい合う人間がいったい何人いるのだろうか・・・?小学校のクラスの○○くんのアドレス帳は友人の名前と電話番号でいっぱいだ。50人ぐらいはいるのだろうか?100人ぐらいだろうか?母には父がいる。父には母がいる。自分はちがう。TVに出ている人とかロックスターはきっと何万人といるんだろうな。自分はちがう。」「自分にはきっと一生誰ひとりとしてあらわれないだろう。」「なぜならこの『法皇の緑』が見える友だちは誰もいないのだから・・・見えない人間と真に気持ちがかようはずがない。」(もちろん、この後も重要ですが省略します。)

(全然関係ありませんが、空条承太郎の口癖は「やれやれだぜ」ですね。)

 

死者が見えない人間とは真に気持ちがかよいあえません。自分は身近に死者がいるのを感じているのに(「ジョジョの奇妙な冒険」ではスタンドですが)他の人はその感覚を共有することができません。他人と感覚を共有できないが故に主人公は「孤独」なのです。このため、主人公は周囲に壁をつくり「世間」や「空気」から外れた「自分の世界」をつくることによって「孤独」に生きるのです。

もちろん、このような主人公の「孤独」は極めて特殊なものです。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」における主人公の「孤独」は全然違います。

 

2.多崎つくるの「孤独」

 多崎つくるは、死者が見えるわけではありません。見えないどころか、シロの死すら全然気が付いていませんでした。この小説で「ノルウェイの森」の主人公のような「孤独」を抱えているのはクロ(エリ)の方です。

 

コミュニティは3人から5人に増えています。「ノルウェイの森」のコミュニティは3人のコミュニティのうち2人が亡くなり完全に崩壊します。取り戻すことはできません。永遠に喪失したままです。

 

多崎つくるのコミュニティのメンバーは、シロを除いて生きています。生きているということは、たとえグループが崩壊したとしても、時間を重ねれば再会することもできるし、和解できるということです。完全な喪失ではありません。しかし、多崎つくるは彼らに再会するたび「会うことはもう二度とないかもしれない」と感じます。彼らは昔の彼らではありません。現実に染まり、現実に足をつけてあくせくと生きています。昔の彼らに比べれば幾分色あせて見えるかもしれません。あの頃の気持ちを取り戻すことはできないのです。これが多崎つくるの「喪失感」と「孤独」です。 

 しかし、これが年をとるということです。「ノルウェイの森」の主人公の特殊な体験による「喪失感」と「孤独」ではありません。この小説の主人公が抱える「喪失感」と「孤独」は、普通の人が年を重ねて、自分がもう若いとはいえない(36歳はおっさんです。残念ですが)頃になって自分の若い頃を振り返り、自分がこれまでに失ってきたものを思い出し、改めて感じる「喪失感」と「孤独」なのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)