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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ①~多崎つくるが「色彩を持たない」とは?

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*激しくネタバレしています。ご注意願います。「羊を巡る冒険」、「ダンス・ダンス・ダンス」、「ねじまき鳥クロニクル」への言及があります。

 

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  以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

以前、(4.名前の意味は?)で「多崎つくる」の名前の意味を説明したときに以下のように述べました。

 

 多崎つくるは自分には色彩がないといつも自分を卑下していますが、本当に色彩のない人間を村上春樹が表現したかったら、名字に「無」か「透」を入れるでしょう。「無」どころか「多」を持つ多崎つくるという人物は、他人の色彩を受け入れて多彩な色彩を出せるオールマイティカードなのです。そして、彼によって周りの人間も色彩を出せるのです。多崎つくるが色彩を失うと、周りの人間も色彩を失います。

 

しかし、そうはいっても多崎つくるは、村上春樹の小説の主人公としては個性が薄いです。他の作品の主人公も個性が薄いではないか、と思っている人もいるかもしれませんが、村上春樹の他の作品の主人公達は決して個性が薄くはありません。彼らは個性が強烈であるがゆえに、「世間」や「空気」から外れ、孤独になるのです。

また、多崎つくるはほとんど自分から積極的に動くことはありません。この小説ではほとんど導き手である沙羅の指示で動いています。主人公が自分の意思で積極的に行動を選択したり、謎を解こうとしたりしないのです。他の作品の主人公も受け身ではないかという指摘がありそうですが、必ずしもそうではないです。

例えば、「羊を巡る冒険」や「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公である「僕」はクライマックスで本質を突いた発言をズバッとする「名探偵」です。「ねじまき鳥クロニクル」の「岡田亨」は「根源的な悪」をバットで殴って倒し、妻を取り戻そうとする「ヒーロー」です。彼らは自らの積極的な強い意思を持って行動しています。しかし、多崎つくるは「名探偵」でもなければ、「ヒーロー」でもない、「普通」の人間です。

 

なぜ、この小説では主人公の「多崎つくる」の設定を、受け身で個性の弱い「色彩を持たない」存在にしたのでしょうか?これは以下の理由が考えられます。

 

第1の理由は、この小説で村上春樹は以前の作品の主人公のような個性の強い人物ではなく、「普通」のどこにでもいそうな人間を描きたかったためです。次のエントリーで詳しく述べますが、以前の主人公の抱える「喪失感」と「孤独」は村上作品特有の特殊なものであって一般的なものではありません。主人公の抱える問題が特殊であるがゆえに、主人公の性格もまた特殊なものになります。

これに対して、多崎つくるが抱える「喪失感」と「孤独」はちょっと間違えれば遭遇してしまうかもしれない一般的な「喪失感」と「孤独」であると作者は考えています。遭遇した問題もここまで深刻なケースはあまりありませんが、行き違いや誤解でかつての友人と絶交状態になったり疎遠になったりすることは、普通の人間でもあり得ることです。主人公もまた普通の人間であり、普通の人間が深刻な問題に遭遇し、「喪失感」と「孤独」を抱える話にこの小説はなっています。

 

 第2の理由は、この小説の構造によるものです。以前のエントリー(余談 その6 この小説の構造は?①~3つの関門)でこの小説は「推理アドベンチャーゲーム」のような構造になっていると書きました。どこがゲームなんだ、小説なんだから一本道ではないかと言われそうですが、推理ゲームはこの小説が終わってから始まるのです。この小説を最後まで読み終えると、推理するための手がかりは全て読者(プレイヤー)に与えられます。与えられた手がかりを使って、小説が終わった後にプレイヤーは主人公の多崎つくるを操作し、自由に事件を推理して真相を解き明かします。この小説はそういうゲームです。

アドベンチャーゲームでもロールプレイングゲームでもよいのですが、ゲームの主人公の設定の仕方は2種類あります。

 

1つは、主人公が強烈な個性を持っている設定です。この場合、ゲームといっても主人公の個性に反するような選択枝は出せませんので、選択枝は限られてきます。このため、こうしたゲームはプレイヤーが自由に行動を選択することができるゲームと言うより、強烈な個性の主人公の体験をゲームをすることによりプレイヤーが追体験するような感じになります。

 

もう1つは主人公の個性が薄い設定です。極端な場合は全く個性がない設定もあります。これは、プレイヤーが自由に主人公の行動を選択し操作することができるようにするためです。このようなゲームでは、主人公はヒーローのようにふるまう選択もできれば、わざと悪役のような行動を選択することもできます。プレイヤーの選択で主人公の性格を180度変えることができるのです。

 

この小説ではどうでしょうか。少なくとも小説の中では多崎つくるの行動は1つに限られているわけですから、彼が完全に無個性で何の行動もしないわけにはいきません。このため、全く個性がないという設定はできません。しかし、彼が強烈な個性と行動力を持ち余計な行動をしたり、推理を始めて謎を解いてしまったら、プレイヤー(読者)が自由に推理する余地が無くなってしまいます。

 

村上春樹は、あえて主人公の個性を薄め、積極的な行動や推理をさせないことによって、小説が終わった後に読者がこの小説の謎を自由に推理できるようにしました。

 

 これが多崎つくるが「色彩を持たない」という意味です。読者がこの小説を自由に推理し解釈できるようにするために、作者は主人公を色々な色彩(解釈)に染めることができる「容器」にしたのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)