「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。①

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方は、まず目次をご覧ください。)

 

     激しくネタバレしています。ご注意願います。 

 

1.「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。

追補.後期「村上春樹作品」に対する誤解(平成2554日掲載)

2.「この小説は100パーセントのリアリズム小説」である。

 

 

1.「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。

 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、推理小説です。推理小説であるから、当然事件が起こり(シロが犯され、殺される)、事件の犯人は必ずいます。事件の犯人はもちろん小説内に実在する特定の人物です。異世界人だったり、小説には出てこない無関係の人間だったり、「やみくろ」だったり、角の生えた悪魔だったりはしません。推理小説ですから、犯人は推理できます。本格推理小説のようにパズルのピースがかちりとはまって、動かぬ証拠で犯人が確定できるわけではありませんが、「極めて疑わしい人間」を推理することは可能です。

 犯人は「根源的な悪」です。これは抽象的な概念や化け物ではなく、特定の「人間」です。このブログではこの事件の犯人を推理し、特定します。

 

追補.後期「村上春樹作品」に対する誤解(平成2554日掲載)

「いや、そんなこと言っても村上春樹の作品なんだから犯人は小説内には存在しないか、いたとしても抽象的な概念か化け物なんでしょ?」という方もいらっしゃるかと思います。

 しかし、その意見は村上春樹作品、とりわけ後期「村上春樹作品」に対する誤解があります。

仮に村上春樹の作品を前期・後期で分けるとすると、村上春樹の後期作品は前期作品と比べ明らかに作風を変えています。ここでいう、後期「村上春樹作品」とは、「ねじまき鳥クロニクル(第3部)」(1995年)以降の作品を指します。「前期」と「後期」を分けるのは、オウム真理教による地下鉄サリン事件1995年)です。村上春樹はこの事件に衝撃を受け、事件以降大きく作風を変えています。多くの後期「村上春樹作品」(とりわけ長編)の重要なテーマに「『根源的な悪』の問題」が入ってくるのです。

そして、後期長編作品内で「根源的な悪」を体現するのは、抽象的な概念や化け物などではなく、「小説内に実在する特定の人物」なのです。例えば、(以下「ねじまき鳥クロニクル」「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」「アフターダーク」「1Q84」への言及があります。(念のためここからネタバレ反転) ねじまき鳥クロニクル」(第3部)(1995年)ではワタヤノボル、「スプートニクの恋人」(1999年)では、フェルディナンド、「海辺のカフカ」(2002年)では田村カフカの父親、「アフターダーク」(2004年)では白川、「1Q84」(20092010年)では新興宗教の教祖が「根源的な悪」を体現しています。 (ここまで)しかも、全ての後期長編作品に「根源的な悪」を体現する人物が登場しているのです。

この後期「村上春樹作品」の系譜を考えると、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2103年)にも「根源的な悪」を体現する人物が登場する方が自然です。この小説は推理小説であるため、「根源的な悪」を体現する人物は読者から隠されてしまっているだけで、実際には小説内に登場しているのです。

 

2.「この小説は100パーセントのリアリズム小説」である。

 かつて村上春樹は、「ノルウェイの森」のキャッチコピーで「この小説は100パーセントのリアリズム小説です」というのを考えた後、「この小説は100パーセントの恋愛小説です」に変えたというエピソードがありますが、この小説は、村上春樹としては久しぶりの「リアリズム小説」です。念のため、ここでいう「リアリズム小説」とは、19世紀のヨーロッパのリアリズム小説ではなく、猫と話せる人が出てきたり、羊男が現れたりとか、そういった現実には起こりえないことは起こらない小説という程度の意味です。なぜ、この小説がリアリズム小説の手法がとられたかと言うと答えは簡単です。この小説が推理小説だからです。人が推理をはじめようとしている時に、現実には起こり得ないことが起こったら(井戸の底に別世界があるとか)、途端に推理する気がなくなります。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)