「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き)  (ネタバレあり)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)の謎解き。事件の真相・犯人を推理し、特定します。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ③~「過去」か、「現在」か

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森ダンス・ダンス・ダンス」「国境の南、太陽の西」への言及があります。  

(前のページに戻る。)

 

 以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

 村上春樹の作品では、「過去」を象徴するものと、「現在」を象徴するものが現れ、主人公がどちらかを選択することを迫られる場面があります。 

(以下、念のためネタバレ反転)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では、主人公は「現在」の象徴である太った娘は選ばず、「過去」の象徴の図書館の少女を選びます。

ノルウェイの森」では、「過去」の象徴である直子を失い、「現在」の象徴である緑を求めます。

ダンス・ダンス・ダンス」では、「過去」の象徴である五反田君と訣別し、「現在」の象徴であるユミヨシさんと結ばれます。

国境の南、太陽の西」では、「過去」の象徴である島本さんと再会して彼女を求めますが、彼女はどこかへ去り、彼は「現在」の象徴である妻(有紀子)に戻ります。(が、和解できたかまでは描かれていません。)

 

(以上ネタバレ反転終了)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」ではどうでしょうか。この作品では、3人の主要な女性が現れます。

 

 シロ(柚木)は「過去」の象徴ですが、死んでいます。死んだものは失われ、取り戻せません。

 

 クロ(エリ)は、「ノルウェイの森」の緑の雰囲気があり、もしかしたら、主人公の「現在」の象徴になったかもしれません。しかしクロは、シロとともにつくるを陥れグループから追放した罪と、シロを見捨てて逃げ出した2つの罪を背負っています。多崎つくるは彼女を赦すことはできても、彼女と結ばれることはありません。クロは、顔を見ると自分の罪を思い出させるような相手(つくる)とは、一緒に暮らすことはできません。つくると彼女が結ばれることは過去にも現在にもありません。彼女もまた、「過去」の象徴です。

 

 沙羅は「現在」の象徴のように見えます。しかし小説が終わった後に、水曜日が来て彼女が全ての真相をつくるに話した時、つくるは彼女が「現在」の象徴ではなく「過去からの声」であることを理解します。その時、つくるが彼女を赦すのか、断罪するのか、彼女と別れることを選ぶのか、彼女と結ばれることを望むのか、全て読者(プレイヤー)の判断に委ねられています。

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ②~主人公の孤独

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。「ノルウェイの森」「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊を巡る冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドへの言及があります。また、「ジョジョの奇妙な冒険」の引用があります。

 

 (前のページに戻る)

 

 以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

 村上春樹作品の主人公は「孤独」な主人公が多いですが、主人公の「孤独」といってもいろいろな種類があります。

 

1.ノルウェイの森」の主人公の孤独

 村上春樹の、以前の特に「前期」作品の主人公の性格は「空気」を読まない「世間」から外れた孤独な性格です。なぜ、主人公が孤独なのか?

 これは、主人公が特殊な体験をしているからです。主人公がどのような特殊な体験をしたのかは、「ノルウェイの森」で描かれています。(また、少なくとも「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊を巡る冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は、おそらく「ノルウェイの森」の主人公と同一人物です。同一人物といっても、全く同じ時空なのか、平行世界の同一人物なのかは分かりません。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の主人公もおそらく同一人物ですが、世界は別世界です。)

 

 主人公には高校時代に小さなコミュニティがありました。キズキと直子と僕によるわずか3人のよる、小さいが「乱れなく調和する」コミュニティです。しかし、このコミュニティはキズキの自殺によって崩壊します。直子とも一時疎遠になり、「僕」は慣れ親しんだコミュニティを失い「孤独」になります。

 このときの状態を「僕」は太字で強調しています。

 

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 

 これは、一般論ではなく、「僕」個人の体験であり、文字通りの意味です。

 大切な友人キズキを失った「僕」には、死者のキズキが(比喩的な意味ではなく本当に)見えています。この現実世界のあらゆるところに、死者であるキズキの存在を感じるのです。死者の存在を身近に感じる主人公は、既に半分死の世界に片足を入れている存在なのです。しかし直子がいる間は、同じ死者の存在を身近に感じる存在が少なくとも1人いたのです。直子が自殺した後は、コミュニティは完全に崩壊し、同じ感覚を感じることができる人間はいなくなり、本質的に主人公は「孤独」になります。緑とはこの感覚は共有できません。緑は、キズキと直子の死は共有していないからです。この小説の後、主人公と緑が結ばれるのか否か小説には書かれていませんが、たとえ主人公が緑と結ばれたとしても、主人公が本質的に「孤独」であることに変わりはないのです。

 

 この感覚は、例えば「ジョジョの奇妙な冒険」の花京院典明の感覚に似ています。

(以下、荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険」文庫版第17巻(集英社文庫)より引用)

花京院典明は自分のこの『法皇の緑』を見る時いつも思い出す。

小学校教師『花京院さんお宅の典明くんは友達をまったく作ろうとしません。そう嫌われているというよりはまったく人とうちとけないのです。担任教師としてとても心配です。』

母『それが・・・恥ずかしいことですが・・・親である・・・私にも・・・何が原因なのか』」

「子供の時から思っていた。町に住んでいるとそれはたくさんの人と出会う。しかし普通の人たちは一生で真に気持ちがかよい合う人間がいったい何人いるのだろうか・・・?小学校のクラスの○○くんのアドレス帳は友人の名前と電話番号でいっぱいだ。50人ぐらいはいるのだろうか?100人ぐらいだろうか?母には父がいる。父には母がいる。自分はちがう。TVに出ている人とかロックスターはきっと何万人といるんだろうな。自分はちがう。」「自分にはきっと一生誰ひとりとしてあらわれないだろう。」「なぜならこの『法皇の緑』が見える友だちは誰もいないのだから・・・見えない人間と真に気持ちがかようはずがない。」(もちろん、この後も重要ですが省略します。)

(全然関係ありませんが、空条承太郎の口癖は「やれやれだぜ」ですね。)

 

死者が見えない人間とは真に気持ちがかよいあえません。自分は身近に死者がいるのを感じているのに(「ジョジョの奇妙な冒険」ではスタンドですが)他の人はその感覚を共有することができません。他人と感覚を共有できないが故に主人公は「孤独」なのです。このため、主人公は周囲に壁をつくり「世間」や「空気」から外れた「自分の世界」をつくることによって「孤独」に生きるのです。

もちろん、このような主人公の「孤独」は極めて特殊なものです。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」における主人公の「孤独」は全然違います。

 

2.多崎つくるの「孤独」

 多崎つくるは、死者が見えるわけではありません。見えないどころか、シロの死すら全然気が付いていませんでした。この小説で「ノルウェイの森」の主人公のような「孤独」を抱えているのはクロ(エリ)の方です。

 

コミュニティは3人から5人に増えています。「ノルウェイの森」のコミュニティは3人のコミュニティのうち2人が亡くなり完全に崩壊します。取り戻すことはできません。永遠に喪失したままです。

 

多崎つくるのコミュニティのメンバーは、シロを除いて生きています。生きているということは、たとえグループが崩壊したとしても、時間を重ねれば再会することもできるし、和解できるということです。完全な喪失ではありません。しかし、多崎つくるは彼らに再会するたび「会うことはもう二度とないかもしれない」と感じます。彼らは昔の彼らではありません。現実に染まり、現実に足をつけてあくせくと生きています。昔の彼らに比べれば幾分色あせて見えるかもしれません。あの頃の気持ちを取り戻すことはできないのです。これが多崎つくるの「喪失感」と「孤独」です。 

 しかし、これが年をとるということです。「ノルウェイの森」の主人公の特殊な体験による「喪失感」と「孤独」ではありません。この小説の主人公が抱える「喪失感」と「孤独」は、普通の人が年を重ねて、自分がもう若いとはいえない(36歳はおっさんです。残念ですが)頃になって自分の若い頃を振り返り、自分がこれまでに失ってきたものを思い出し、改めて感じる「喪失感」と「孤独」なのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 書評 ①~多崎つくるが「色彩を持たない」とは?

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。「羊を巡る冒険」、「ダンス・ダンス・ダンス」、「ねじまき鳥クロニクル」への言及があります。

 

 (前のページに戻る)

 

  以下の書評は、本ブログの本編と余談の推理を前提としています。初めてこのブログを読まれる方はできれば本編からご覧願います。(目次に戻る)

 

以前、(4.名前の意味は?)で「多崎つくる」の名前の意味を説明したときに以下のように述べました。

 

 多崎つくるは自分には色彩がないといつも自分を卑下していますが、本当に色彩のない人間を村上春樹が表現したかったら、名字に「無」か「透」を入れるでしょう。「無」どころか「多」を持つ多崎つくるという人物は、他人の色彩を受け入れて多彩な色彩を出せるオールマイティカードなのです。そして、彼によって周りの人間も色彩を出せるのです。多崎つくるが色彩を失うと、周りの人間も色彩を失います。

 

しかし、そうはいっても多崎つくるは、村上春樹の小説の主人公としては個性が薄いです。他の作品の主人公も個性が薄いではないか、と思っている人もいるかもしれませんが、村上春樹の他の作品の主人公達は決して個性が薄くはありません。彼らは個性が強烈であるがゆえに、「世間」や「空気」から外れ、孤独になるのです。

また、多崎つくるはほとんど自分から積極的に動くことはありません。この小説ではほとんど導き手である沙羅の指示で動いています。主人公が自分の意思で積極的に行動を選択したり、謎を解こうとしたりしないのです。他の作品の主人公も受け身ではないかという指摘がありそうですが、必ずしもそうではないです。

例えば、「羊を巡る冒険」や「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公である「僕」はクライマックスで本質を突いた発言をズバッとする「名探偵」です。「ねじまき鳥クロニクル」の「岡田亨」は「根源的な悪」をバットで殴って倒し、妻を取り戻そうとする「ヒーロー」です。彼らは自らの積極的な強い意思を持って行動しています。しかし、多崎つくるは「名探偵」でもなければ、「ヒーロー」でもない、「普通」の人間です。

 

なぜ、この小説では主人公の「多崎つくる」の設定を、受け身で個性の弱い「色彩を持たない」存在にしたのでしょうか?これは以下の理由が考えられます。

 

第1の理由は、この小説で村上春樹は以前の作品の主人公のような個性の強い人物ではなく、「普通」のどこにでもいそうな人間を描きたかったためです。次のエントリーで詳しく述べますが、以前の主人公の抱える「喪失感」と「孤独」は村上作品特有の特殊なものであって一般的なものではありません。主人公の抱える問題が特殊であるがゆえに、主人公の性格もまた特殊なものになります。

これに対して、多崎つくるが抱える「喪失感」と「孤独」はちょっと間違えれば遭遇してしまうかもしれない一般的な「喪失感」と「孤独」であると作者は考えています。遭遇した問題もここまで深刻なケースはあまりありませんが、行き違いや誤解でかつての友人と絶交状態になったり疎遠になったりすることは、普通の人間でもあり得ることです。主人公もまた普通の人間であり、普通の人間が深刻な問題に遭遇し、「喪失感」と「孤独」を抱える話にこの小説はなっています。

 

 第2の理由は、この小説の構造によるものです。以前のエントリー(余談 その6 この小説の構造は?①~3つの関門)でこの小説は「推理アドベンチャーゲーム」のような構造になっていると書きました。どこがゲームなんだ、小説なんだから一本道ではないかと言われそうですが、推理ゲームはこの小説が終わってから始まるのです。この小説を最後まで読み終えると、推理するための手がかりは全て読者(プレイヤー)に与えられます。与えられた手がかりを使って、小説が終わった後にプレイヤーは主人公の多崎つくるを操作し、自由に事件を推理して真相を解き明かします。この小説はそういうゲームです。

アドベンチャーゲームでもロールプレイングゲームでもよいのですが、ゲームの主人公の設定の仕方は2種類あります。

 

1つは、主人公が強烈な個性を持っている設定です。この場合、ゲームといっても主人公の個性に反するような選択枝は出せませんので、選択枝は限られてきます。このため、こうしたゲームはプレイヤーが自由に行動を選択することができるゲームと言うより、強烈な個性の主人公の体験をゲームをすることによりプレイヤーが追体験するような感じになります。

 

もう1つは主人公の個性が薄い設定です。極端な場合は全く個性がない設定もあります。これは、プレイヤーが自由に主人公の行動を選択し操作することができるようにするためです。このようなゲームでは、主人公はヒーローのようにふるまう選択もできれば、わざと悪役のような行動を選択することもできます。プレイヤーの選択で主人公の性格を180度変えることができるのです。

 

この小説ではどうでしょうか。少なくとも小説の中では多崎つくるの行動は1つに限られているわけですから、彼が完全に無個性で何の行動もしないわけにはいきません。このため、全く個性がないという設定はできません。しかし、彼が強烈な個性と行動力を持ち余計な行動をしたり、推理を始めて謎を解いてしまったら、プレイヤー(読者)が自由に推理する余地が無くなってしまいます。

 

村上春樹は、あえて主人公の個性を薄め、積極的な行動や推理をさせないことによって、小説が終わった後に読者がこの小説の謎を自由に推理できるようにしました。

 

 これが多崎つくるが「色彩を持たない」という意味です。読者がこの小説を自由に推理し解釈できるようにするために、作者は主人公を色々な色彩(解釈)に染めることができる「容器」にしたのです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その21 ピアノ・ソナタの夢の意味は?

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

(前のページに戻る)

 

 多崎つくるがこの小説の終わり近くに見るピアノ・ソナタの夢の意味はなんでしょうか? 

これは、この小説そのものの比喩です。村上春樹はこの小説の構造に絶対の自信を持ち、この夢の描写で自画自賛までしています。しかし、ほとんどの読者はこの小説の価値をまったく理解せず、退屈なものだと不満に思うだろうと作者は考えています。この小説を発表する前から、作者はこの小説は理解されず不評が多いだろうな、と覚悟していたのだと思われます。(むしろ、こんなにたくさん売れてびっくりしているでしょう。)

これは、この小説が「推理小説」であるのに小説内では種明かしをしないこと(リドルストーリーであること)、そして、そもそもこの小説が「推理小説」であることは公表しないという、ちょっと見方によっては「ずるい」発表の仕方をしているので、まあしょうがないでしょう。読者の不満や批判を想定したうえで、あえて作者は真相を伏せています。

 

(この小説が「推理小説」であることは、「自分がそのもつれあった莫大な量の暗号の海を、誰よりも素早く正確に解読し、そこに正しいかたちを同時的に与えていけるということが。」という描写で暗示されています。)

 

白鍵はシロの比喩、黒鍵はクロの比喩、楽譜をめくる黒衣の女性は誰なのでしょうか?最初、シロ(真っ白な指)、クロ(漆黒の髪、黒いドレス)、灰田(6本の指)の融合した存在なのかな、と思ったのですが、これでは意味がよくわかりません。

 

「彼は自分の傍に立つ女の顔を見上げたかった。それはどんな女なのだろう?彼が知っている女なのだろうか?」

たぶん、この女性は沙羅だと思います。楽譜のページをめくる=真実への導き手という意味かと思われます。指が6本というのは、6本指=灰田か緑川の暗示というミスリードになっていますが、これはこの夢では別のことを指しているのかと思います。今まで、私はこの小説の6番目の登場人物は灰田であると誤解していましたが、実は6番目に登場するのは沙羅です。(時系列ではなく、小説のページの順番です。)6番目に登場する沙羅が真実への導き手であるという暗示です。

 

以上で余談を終わります。次回からは書評になります。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その20 灰田の「自由にものを考えるというのは・・・」の話の意味は?

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)   

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。(「ノルウェイの森」への言及があります。)

 

(前のページに戻る)

 

 66ページからの灰田の「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。」以下の話は何を語っているのでしょうか。これは作者村上春樹が、自分が小説を書くときの方法論を灰田の口を借りて語っているのです。似たようなことを村上春樹はインタビューなどで語っています。特に「でも、それは意図的に夢を見られるというのと同じくらい困難なことです。普通の人にはなかなかできません。」など、インタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」のタイトルそのままです。

 

 ちなみに「ノルウェイの森」でも作者は、主人公の口を借りて自分が小説を書くときの方法論を語っています。エウリピデスの演劇論、「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」ですね。しばしば、村上春樹の小説にはデウス・エクス・マキナが登場することがあります。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その19 「爆笑問題」太田光、「多崎つくる」をブッタ斬る!?

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)  

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

(前のページに戻る)

 

 ちょっと前になりますが、ラジオで「爆笑問題」の太田光村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を批判しています。書き起こしが以下にあります。

 

http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-2310.html

 

これを読んで思ったのは「何か2、3周回遅れの批判だなあ」と。それこそ、「ノルウェイの森」以来連綿として続いている批判から、何の代わり映えもしない批判ですね。前に村上春樹叩きもファッションでしたと言いましたが、古すぎて最早「オールド・ファッション」です。「中身がゼロ」と批判しているけど、本人の批判が一番中身ゼロってどうしようもないですね。芸人なんですから批判するにしても、何か芸がないといけないんじゃないかと思います。

 

「多崎つくる」をブッタ斬るなら以下のような感じはどうでしょうか?

 

(そういえば、大森望豊崎由美村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』メッタ斬り!」(河出書房新社)という書評もあるらしいですね。読んでないし、これから読む気はありませんが。)

 

(下記のO、TはO=太田、T=田中の略ではありません。O=織田、T=徳川の略です。(誰だよ?))

 

O「今売れているらしい、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだんですが」

T「はい…」

O「もう腹が据えかねるものがありますね」

T「読んじゃったんですね」

O「村上春樹は本当に分からない。言ってることは、とても難しいですからね。観念的で」
T「うん」
O「わかりにくいんです。だから、100万部越えするようなものじゃないと思うんですよ」

T「ファッションでしょ?ほとんどの人が。たとえば、『ダンス・ダンス・ダンス』とか『ノルウェイの森』の頃、俺らが大学生の頃って、最初はちょっとファッションっぽい感じがあったじゃないですか」
O「『ノルウェイの森』からですよ。物凄かったんですよ、売れ行きが。そこからはクソつまらなくなった」
T「それこそ村上春樹の作品は、カウントダウンして売るって状況じゃないですか」
O「あそこに並んでいる不細工な男たちは、何を考えているんだろうね」
T「不細工は関係ないですよ()…そこで待ちきれないって言って、カフェに行って読んでいるっていう、そのトータルファッションっていうのは村上春樹さんに大きいと思うんだよね」
O「まあ、こうやって村上春樹叩きしているのも1つのファッションなんですけどね」
T「おや、自分でファッションって言っちゃう」

O「そう。村上春樹が新作を出す。それが売れる。そして、文化人がつまらんと言って叩く。この一連の流れがトータルファッションなんですよ。よく言うでしょ。『家に帰るまでが遠足です』って」

T「遠足・・・(自分を文化人って言っちゃう?)」

O「いや、この小説の主人公、この長ったらしいタイトルにも書いてあるけど『多崎つくる』って言うんですが、こいつが全然モテなさそうなんですよ。村上春樹読んだらモテるかもとか思っている奴がいたらやめといた方がいいよ。登場人物の真似したら100%モテないから」

T「真似したことがあるんですか」

O「いや、あんな変なことばっかり言っている人間、現実にはいねえよ。

で、もともと主人公には高校時代4人の親友がいたのだけど、大学2年になっていきなり理由も言われずハブられるんですよ。『ぼっち』になっちゃう。

『ぼっち』なら『ぼっち』らしく孤独でいればまだ納得できるのだけど、それでモテなさそうなのに、なんか都合よくあっさりセフレができて童貞を卒業しちゃったり、現在も年上の彼女と、恵比寿のこじゃれたバーで優雅にカクテルなんか飲んでたりする。『ぼっち』じゃ全然ねえよって。

 もう、男の妄想全開ですよ。男の妄想全開なのは『ヤングジャンプ』か『ヤングマガジン』だけにしとけよって話ですよ」

T「村上春樹は『ヤングジャンプ』だと(笑)」

O「で、この主人公、受身で自分からは積極的に全然動かないんですよ。彼女に言われて言われたとおり動く。あれですかね。今はやりの『草食系男子』でも意識したんですかね。」

T「主人公は『草食系男子』ですか」

O「それでね。16年前4人の親友からハブられた理由を、主人公がかつての親友達に尋ねに行って、最後にはフィンランドまで行っちゃうのが、この話の流れなんだけど、なんでわざわざ16年前の理由を聞きにいくかって、それは彼女が理由を聞きにいかないとセックスしてくれないって言うからなんですよ」

T「単純ですね(笑)」

O「もう、お前『草食系男子』なのか、そうでないのかはっきりしろよって。

それでですね、いろいろ謎らしいものが出てくるんですけど、それが全然解決しないまま終わっちゃう。読んでもすっきりしない。モヤモヤするんですね」

T「まあ、村上春樹の小説ってそんな感じですよね」

O「いや、深読みすれば何か分かるのかもしれないんだけど、現代の読者はそんな暇じゃないですよ。1回読んでわけわからなかったら『つまんね』って投げておしまいですよ。19世紀の、読書ぐらいしか娯楽のなかった時代と違うんですよ」

T「皆さんいそがしいですからねー」

O「ところで、僕この小説の真相に気が付いちゃったんですよ。(ニヤリ)」

T「本当ですか?(おいおい、まさかラジオでネタバレするつもりか?一番やっちゃいけないことだぞ)」

O「もちろんいちばん大事な部分は言わない。それはここの中にしかない」(と自分のこめかみを指先でとんとんと叩く。)

T「ウザッ(てかラジオじゃ見えんわ!)」

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。) 

余談 その18 沙羅の言葉(工程表、含み)、アカの言葉

(目次に戻る)(初めてこのブログに来られた方はまず目次をご覧ください。)  

 

*激しくネタバレしています。ご注意願います。

 

(前のページに戻る)

 

 沙羅が4人の名前を教えてほしいと頼んだ時、以下のように言っています。

「でもあなたがその気になりさえすれば、きっと解決できる問題だと思うの。(中略)ただそのためには必要なデータを集め、正確な図面を引き、詳しい工程表を作らなくてはならない。なによりものごとの優先順位を明らかにしなくてはならない」

 

 これは、多崎つくるに、シロ(柚木)が殺された真相を探り明らかにしてほしいという意味でした。(この時点では多崎つくるはシロが死んでいることすら知りませんが。)

そのためには、必要なデータを集め(関係者(グループのメンバー)に聞き込みを行い)、正確な図面を引き(正確に推理し)、詳しい工程表を作らなくてはならない(捜査をして推理するための計画を立てないといけない)。なによりものごとの優先順位を明らかにしなくてはならない(なによりもシロの死の真相を解き明かすことが重要である)。

 

つまり、沙羅は多崎つくるに「探偵」になって、「シロの死の真相」を解き明かしてほしいと言ったのです。しかし、この沙羅の隠されたメッセージは多崎つくるには結局正確には伝わらず、彼は「ドジな探偵」のままでしたが。

 

クロへの巡礼が終わった後、つくるは沙羅に電話をしてクロへの巡礼を報告しますが、その際につくるは沙羅の沈黙に「風向きを計るような、含みのある沈黙」を感じます。結局つくるはこの「含み」がなんであるかに気が付きません。

クロへの巡礼により、多崎つくるは「シロの死の真相」に一段と近付いたはずでした。この後、本来多崎つくるはシロの死に疑問を持ち、シロの死の真相を探るための作業が続くはずなのです。これが「なによりものごとの優先順位を明らかにしなくてはならない」ことです。

ところが、多崎つくるは沙羅への報告の電話で、クロへの巡礼でもうこの巡礼(真相を探る旅)が終わったような感じで話しています。まだ何も解決していないのに巡礼が終わったと感じている、つくるの態度に沙羅は非常に不満で「もっと話すべきことが他にあるだろう」と思っているのです。

 

     ◇   ◇   ◇

 

 上とはちょっと関係のない話です。

アカは次のように言っています。

「『しかしもちろんいちばん大切な部分は書かれていない。それはここの中にしかない』、アカは自分のこめかみを指でとんとんと叩いた。『シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない。』」

 これは、「この小説(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)にはいちばん大切な部分(事件の真相)は書かれていないが、作者の頭の中にはある(真相は存在する)」というアカの口を借りた作者からのメッセージです。

 

(お読みいただきありがとうございます。もし、よろしければ感想などありましたら、コメント欄にコメントしていただけると嬉しいです。)